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大人の人生はおもしろいか

この質問に答えようとすること。これこそが、僕らの創造と豊穣の源泉なのである。

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HappynessとSuccessそして有能であるということ5


■人の目指す3つ志向性

人には、3つの志向性があると考えます。


その3つとは、幸福であること、成功すること、有能であること、です。

ここで、幸福であること、有能であることについては、
説明の必要がないかと思いますが、
成功してること、については、人によって解釈が違うと思いますので、
少しばかり定義を述べておきます。

成功してること、とは、ここでは、
コトを成し遂げること、偉業をなしとげること、
と、しておきます。

で、

やまいもは、この3つのバランスをとるのが肝要と考えます。

バランスをとるのが肝要といっても、
そのバランスは、人によって大きく異なってきます。
また、同じ人でも、時期によっても違ってきます。
ですので、単にバランスをとるといっても、
一概にこうすればよいということはありません。

ただ、いいたいことは、ひとつの方向にかたよってしまう、
というのは、まずいということです。

なぜなら、この3つのバランスがくずれると、うまくドーパミンがでなかったり、
途中で立ち行かなくなってしまったり、’酸化’の進行具合が早く、
早死にしてしまうようからです。


例えば、幸福であることに力点を置きすぎると、
前述のハッピーロボットになってしまう可能性があります。
ハッピーロボットは、ある意味、現実を都合よく見すぎるきらいがあります。
そうすると、正確な判断ができなく、反ってトラブル多き人生になることが予想されます。
また、大事を成し遂げるということも、叶いにくいかと思われます。
それも、ひとつの人生ではあると思いますが、
やまいもとしては、ちょっと気が進みません。


有能を一辺倒だと、どうでしょうか?
これはこれで、達成の思想でよいのかもしれませんが、
波乱万丈でとめどなくドーパミンがでるといった人生
ではないかもしれません。


また、成功一辺倒だと、どうでしょうか?
それは、無謀かつ無能な夢想家となるでしょう。

やまいもが理想とする人生は、
成功観点では、人生の遠望を抱き、大事を成し遂げ
有能の観点で、常に実務家で周囲に頼りにされ、社会に貢献し、
幸福の観点では、周りの人間との良好な関係を築き、多幸感の中で生活をおくるという、
そういう人生です。




■太鼓


この世の中の、あらゆるメッセージというものが、
この3つの観点で発せられています。

それらメッセージをバランスよく配分、摂取していくのが
よろしいかと思います。

要はバランスです。

さて、この「要はバランスです。」
というステートメントは、どのカテゴリーに属するメッセージなのでしょうか?

と振っておいてなんなのですが、
実は、このステートメントは、メッセージになっておりません。
さも、メッセージの装いをしておりますが、実のところなにも言っていないからです。
メッセージというのは、明確な方向性をしめし、その方向性でいけば
何かご利益があるということをです。


これでは、あんまりだとおもいますので、ちょっとメッセージらしきことも
いっておきます。


そのメッセージとは、やまいもが、これだけは信じたほうがよいと、
思っているものです。


「太鼓は強くたたくと、大きな音が出る」


出展は、司馬遼太郎さんの小説だったと思います。

竜馬が西郷のことを、「太鼓のようなもの」、評したそうです。

こちらが小さくたたけば、小さな音をだし、
大きくたたけば、大きな音をだすという、
そうゆうスケールの大きい、大人物であったということなのでしょう。

このストーリーに読むにつけ、わたしは、人生もまた太鼓のようなものだと感じました。

すわなち、大きく志をいだいて、人生と熱く対峙すれば
それ相当のものがかえってくる、と。

というわけで、自身も、人生の太鼓を大きく叩いていきたいものだと
思った次第でなのでございます。


(了)

2009/04/08(Wed)  HappynessとSuccessそして有能であるということコメント(4)トラックバック(0)
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HappynessとSuccessそして有能であるということ4


■お腹がすくとご飯は美味しい

さて、いろいろな考え方の良い点、悪い点を述べてきましたが、
そろそろ、結局やまいもは、どう思うんじゃい、
という声が聞こえてきそうです。

まず、本シリーズの最初のところで、問うた問いは、
以下のものでした。

僕ら人間という存在が、
「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」存在である
という事実に対して、それをどのように解釈すればよいのか、
そして、解釈した結果、人はどのように生きたらよいか


また、途中から出てきた問いは、以下のものです。
「そもそも意味をもとめるという行為は、
 人として正しい行為なのだろうか?」



これらの問題について、これから、やまいもの哲学を述べていきます。


まずは、
「お腹がすくとご飯は美味しい」

この個人的な真実からスタートしたいと思います。

お腹がすくとご飯は美味しい。

ご飯が美味しいとなんだかうれしい。

このうれしい感覚は、とっても’快’だ。

だから、フラスコとか、意味とか、ドーパミンとか
よくわからないけど、ご飯が美味しいとうれしい、
というラインは保った上で、
いろいろ、考えるといいじゃないかな、と。
そう、やまいもの体が申しております。

というわけで、「お腹がすくとご飯は美味しい」という個人的真実は圧倒的に正しい、
これがこれから論を進めていく上での前提になります。



■意味をもとめるべきなのか

まず、意味を求めるべきなのか?

これについては、やまいもの立場としては、
明確に、意味を求めるべき、と考えます。

それは、感覚が肥大化している人間という存在にとって、
その肥大化が身の破滅を防ぐもっとも有効な手段と考えるからです。

変な風にハッピーロボットになってしまうのは、
どうかと思いますが、まあ、メッセージというのは、
常に落とし穴があるということで、
全体としては、意味を求めることは、そんな悪いことではない
というのが、やまいもの見解です。



さて、意味を求めるという行為は一応了承されたので、

人間が「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」
存在である

というコトのついて、どのような意味として
解釈すればよいのでしょうか?


結論から言えば、

「すばらしいこと」と解釈するのがよろしい

ということになります。


この理由を、背理法で説明することにします。


もし、仮に、「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」
この事実に対して否定的、ないしはニュートラルな
価値付けを行うとしましょう。


つまり、人が「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」過程で
発生する化学反応は、それ以上でもそれ以下でもない、無意味である
と仮定するのです。

そうなると、「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」
過程でもたらされる化学反応によって、「お腹がすくとご飯は美味しい」
というすばらしく肯定的な個人的な真実がもたらされるならば、
それはおかしい、ということになる。

だって、それ以上でもそれ以下でもなく、無意味なことならば、
すばらしく肯定的な個人的な真実がもたらされるわけはないという理屈です。


というわけで、
人は結局「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」という
存在ではあるが、そのプロセスはすばらしいこととして
アプリオリに肯定的に捕らえてよいということになります。

そうなってくると、そのプロセス自体はすばらしいことであり、
そのプロセスに意味を求めることもよい、ということなので、
より積極的に意味を見出すことによって
より好ましい化学反応を作り出していこうという
姿勢が出てくることになると思います。

つまり、意欲的な生き方、積極的な生き方です。

そういった姿勢をやまいもは、上記の理屈より
積極的に肯定をしたいと思うわけです。

要は、
「人間が必死で生きようとする姿はすばらしい。
 そしてそのことに積極的に意味を見出すべきだ」、と。


では、そう結論付けたうえで、
人は、具体的にどう生きていったらよいのでしょうか?
つまり、生きるという化学反応を、
どのような方向に意味づけをおこなっていけばよいでしょうか?


(次回へつづく)

2009/04/06(Mon)  HappynessとSuccessそして有能であるということコメント(0)トラックバック(0)
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HappynessとSuccessそして有能であるということ3


■リフレームとハッピーロボット

前回の、人間の成功に関する3つの思想はいかがだったでしょうか?
なかなかに、スッキリと整理されていて、かつ
しみじみとした深い味わいであったと思います。

しかし、ここでは、その味わいについて話をすすめることはいたしません。

ここで注目したいのは、この意味づけの方向性を変遷させることによって、
感覚を追求するという宿命を背負った人間が、
如何に巧みに、生きる意欲を失わずに、生きていっている
というところです。

つまり、感覚の肥大化に対処しているということです。

例えば。

競争の思想の観点では、
目の前の競争に敗れるということは、間違いなく’不快’です。
しかし、達成の思想の観点では、その敗北も、
達成に向けて歩みを進めているということで、
幾分、その不快度指数が軽減されているのです。

さらに、成長の思想に至っては、
敗北そものもが、成長をもたらす糧として
珍重されていることすら考えられます。
つまりは、’快’であるかもしれないのです。


僕ら人間が、良質なドーパミンを
沢山出すことを志向する巨大なフラスコであるならば、
このように、意味づけの方向性を変えてやるという行為で、
僕らは極めて有効に機能できているといえるでしょう。


さて、意味づけの方向性を変えてやる、ということですが、
このことを、リフレームと呼びます。

我々の周りにおきる出来事には、さまざまな側面があり、
一概に良いとも悪いともいえません。

であれば、都合よいフレームに付け替えて、
そのフレームごしに世界を眺めてしまえば、
脳内を、’快’で満たしてしまえるというコトです。


そして、この手法を洗練し、常にリフレームできるようになって
しまった人のことをハッピーロボットと呼びます。

どんな状況であろうと、巧みにフレームを付け替えてあげて、
脳内のドーパミンを絶やさないようにします。
極めて機械的で、自由度がないので、
こういう人は、ある意味でロボットといってよいでしょう。

誤解して欲しくはないのですが、
ハッピーロボットの概念の理解のために敢えて言うならば、
ハッピーロボットというのは、宗教又は
スピリチュアルのにおいがします。
また、前述の、成長の思想にも通じるところがあります。
本当に誤解して欲しくはないのですが、
宗教が悪い、スピリチュアルが悪い、成長の思想が悪い
ハッピーロボットが悪い、といっているわけではありません。

というより、ハッピーロボットこそ
人間=巨大なフラスコ説というフレームで眺めてみた場合において、
それは、ひとつの到達点とみることもできるでしょう。


しかし、このハッピーロボット、これはこれで良いようなきもしますが、
果たして本当にそうなのでしょうか?


仮に’良くない’と判断するならば、
リフレーム、ひいては、
意味を求めるという行為自体についても、
疑問符がついてくるということになってくるのではないでしょうか。

そこで登場するのが。。。

 

■ニヒリズム

・・・・・・・・・・・・・・・・
「踊るんだよ」羊男は言った。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。
 おいらの言っていることはわかるかい? 
 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。
 意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・
  「ダンス・ダンス・ダンス」より、(by 村上春樹)

村上春樹氏は、意味なんてない、といいます。
ナイキのCMではなないですが、「just do it」です。

村上春樹氏は、ハッピーロボットが念頭にあったわけでは
ないと思いますが、意味をもとめるということに関して
消極的なような気がします。

それはそれで、考え方ですが、
ある種、ニヒリズムに近い考え方だと思います。


ニヒリズムの困った点は、元気がなくなってしまう
ということです。


僕らは、感覚を求めるようできていて、
それでいて、感覚を単に求めるだけでは難しい状況に陥っているわけで、
「踊るんだよ」「just do it」といわれても、処方箋にはなりにくいのが現実かと思います。

とはいえ、このニヒリスティックな態度というのは、
こと踊ることに集中しているわけなので、一種の作業集中の状態と考えられます。

ですので、気分もそんなに悪くないと思われます。
そして、なにより大変有能であるといえます。


(次回へつづく)



2009/04/02(Thu)  HappynessとSuccessそして有能であるということコメント(4)トラックバック(0)
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HappynessとSuccessそして有能であるということ2


■意味をもとめるということの意味

さて、解釈するとはどういうことでしょうか。
事実が与えられたとき、それに対して意味づけをする
意味を求める、というようなことかと思います。

この意味を求めるということに関して、
それはどういうことかをまず、考えてみます。

以前のエントリーの中で

「進化論的にいうと感覚の肥大化したものが人間である

というお話をしました。(覚えておいででしょうか?)

これは、どういうことか。

通常、生命というものは、個体の存続(個体としての生存の維持)、
ひいては、種としての繁栄を目指すという方向性があります。

ところが、人類にいたっては、個体の存続、及びその延長線上にある
種としての繁栄を、一般的な意味では
純粋に目指していないという側面があります。

共生の思想であったり、環境に配慮してなどと、
いわゆる’手加減’をしているのが、それにあたります。

そして行き場をうしなった方向性に対して、
感覚という、たまたまあった手持ちの道具を肥大化させてきたのが
人類の歴史であったわけです。

この状況において、感覚さえもが、
曲がり角を迎えるにいたっているのが、現在の人類の立ち位置です。


そして、この’曲がり角’に対処する方策として考え出されたのが、

「意味を求める」

という行為になるわけです。


意味を求めることで、どうして’曲がり角’に対処できるのでしょうか?

曲がり角という意味は、感覚の肥大化をピュアな形でおこなっていくと、
それは、マイケルジャクソンになってしまう、ということでした。

つまり、ピュアな形での感覚の肥大化の方向性は、
身の破滅につながる、と。

なので、ピュアな形の感覚の肥大化に対して
ストッパーをかけるという行為
が必要になってきます。
実は、それが「意味を求める」
という行為の正体なのです。

なぜなら、「意味を求める」ことにより、
感覚の量的な側面から、質的な側面へ焦点をシフトさせることができるからです。



■成功の条件

「意味を求める」ということに関して、もう少し掘り下げるために
経営コンサルタントの田坂広志さんの「人生の成功とはなにか」というテキスト
を取り上げてみたいと思います。

人生の成功とは何か 最期の一瞬に問われるもの人生の成功とは何か 最期の一瞬に問われるもの
(2005/06/23)
田坂 広志

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田坂広志さんのご著書は、いくつか読ませていただいているのですが、
なかなかに詩的な独特の文体で、深い味わいを持つものが多いです。

例えば、以下のような感じ。

・・・・・・・・・・・
マネージャーが、「人間成長」という聳え立つ頂に向かって、登り始める。
そのとき、山道を登っていくために、身につけるべき大切なものがあります。

「人間観」

それを身につけなければならない。

「人間」というものをどう見るか。どう観ずるか。

その「人間観」です。

・・・・・・・・・・・
(田坂広志 著「なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか」より)

なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか 人間の出会いが生み出す「最高のアート」なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか 人間の出会いが生み出す「最高のアート」
(2007/07/19)
田坂 広志

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実に、素敵な文体です。

この自己啓発の吟遊詩人とでも言えばいいのでしょうか、
この空気感、いっぱつでファンになってしまいました。
とってもオススメです。


さて、前述の「人生の成功とはなにか」ですが、人間の成熟度合いによって
人間の成功を3つの観点で整理しています。

1.競争の思想
 人間の最初の段階です。端的にいうと「人生の成功=競争に勝つこと」
 という考え方です。この思想の良いところは、非常に強烈なモチベーション
 が発生するということです。競争というのは、非常にハッキリとしており
 具体的に目に見える形で成果が現れます。従って、ここに価値を置いて
 生活するということは、常に人生のものさしを差し出され続けて
 いるということですから、刺激には満ちていると考えることができます。
  反面、こころの平安が訪れにくいというデメリットがあります。
 常に追い立てられているわけなので心が休まることがないでしょう。
 また、価値判断の基準が、相対評価ですから、自分の外にあるわけです。
 ですので、人の目を気にして生きなくてはならないところも、
 ちと、つらいところです。
 しかし、競争に勝つ一握りの人間にとっては、極めてハイパフォーマンスを
 出しやすい思想であることは間違いないです。

2.達成の思想
 それに対して、達成の思想は、登山に例えることができます。
 この思想とは、山の頂を制覇したことに価値をおく思想です。
 一番先に到達したこと(競争の思想)ではなく、
 あくまで、達成したことがに価値があると考えるのです。
 またこの考え方は、価値判断の基準が自分の中にあると
 考えることができます。
 ですのでより安定した精神状態で生活することが可能となってきます。
 この思想は、コツコツと努力をする性格の人間にとっては、とても
 しっくりくる考え方ではないでしょうか。
 というのも、競争の思想だと、常に競争に勝たなければ意味がなかったかけ
 ですが、この思想は登山ですから、常に山の頂を目指し続ける態度に価値を
 置くことになります。
 従って、常に前向きでコツコツと努力しやすいのです。

3.成長の思想
 そうはいっても、努力しつづけるもの、つらく困難な状況が時におとずれる
 というのが人生です。
 こういった困難な状況に威力を発揮するのが、成長の思想です。
 成長の思想とは、困難な状況にこそ、人が成長するとてもとても
 貴重な体験である、と考える考え方です。
 そして、そういった困難な状況にもまれながら
 成長していく姿にこそ、人生の意味がある、と。こう考えるわけです。
 この思想はある意味、人格者・又は聖人の思想です。
 右の頬をぶたれれば、左の頬を差し出す、というか、
 敢えて火中の栗を拾うような、そういう生き方だと思います。


 (次回へつづく)

2009/03/31(Tue)  HappynessとSuccessそして有能であるということコメント(0)トラックバック(0)
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HappynessとSuccessそして有能であるということ1

■はじめに

今回もシリーズものであります。
そして、また人生論、人が生きるとはどういうことか
といった話になります。

とても、しみじみとしたいい話になると思いますので
ご期待いただきたいと思う次第でございます。



■巨大なフラスコ

先日、とある映画を見ました。
ベンジャミンバトンという映画です。

人が笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ、
そういう映画です。

こういう言い方をしてしまうと、あまりに抽象度が高すぎて、
何も伝わりませんが、一言で言ってしまうと、そういうことになると思います。

映画を言葉で説明してしまうと、得てしてこうなるものです。

そもそも、映画とは言葉で伝えられないから、一言で言えないからこそ
2時間もの間、映像と音楽(情動喚起システム)を用いて、
仮想的体験をつくりだしているのですから。




それはともかく、私が言いたいのは、映画というのは、
ものすごく情報をそぎ落としてしまうと、

「人が笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」

ということになるのではないか、ということです。

そして、映画というものが人の人生を描くというものならば、
それは、人間という存在そのものが

「笑って泣いて、愛し合い、別れ、そして死ぬ」

存在だということです。


もう少し、別の視点でとらえてみます。


人間は、莫大な化学反応を起こし続ける
巨大なフラスコです。

僕らが、「笑って泣いて、愛し合い、別れ」ている間に、
さまざまな化学反応がフラスコ内で発生し、
全体としては、次第に’酸化’して、死ぬ、と。

単にそれだけです。人間とは、人体というフラスコのなかで
化学実験をしているとも考えることができるのです。


そしてこの化学実験の過程で、
ドーパミンが人より沢山でていると、
幸福だったということになる、と。


この化学実験にどんな意味があるのでしょうか。


■我々のゴール

この化学実験ということについて、これに関しては、
100%事実の世界の話です。

太陽が東から昇り、西に沈むとう意味での客観的な事実です。


しかし、この事実をうけて、
それをどう解釈していくかということについては、
客観的な事実の世界の話ではなく、
個人的な真実の世界の話になります。

個人的な真実のことを、人は哲学と呼びます。

それをどう呼ぶかは重要ではなく、
その事実の解釈そのものが重要になってきます。

いつでも、事実はそれほど重要ではありません。
それよりも、その事実を如何に解釈するか、
如何に活用するかが、重要なのです。

それは、本当に、いつでもそうです。

なぜなら、事実では、人の心は動かないからです。
安らかにならないからです。
嬉しくならないからです。
喜びは生まれないからです。

人を動かすのは、常に、解釈です。
実践です。哲学なのです。
決して、理論ではないのです。


ということで、この事実にたいして、どう解釈するか。
それとも、解釈しないのか。

この解釈の問題に対して、明確に一応の答えを提供しようというのが、
本シリーズの到達点になります。
次回以降、この到達点に到達するべく論を進めてまいります。


(次回へつづく)
2009/03/29(Sun)  HappynessとSuccessそして有能であるということコメント(0)トラックバック(0)
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自由論5

■現実的な自由の練習



さて、「曇りなき眼で見定め、そして決める」
とはいっても、現実的には、そうはいっても
というところがあるのではないかと思います。

そう、僕らは自由になれていないため
アシタカのようになるには
自由の練習をしなければなりません。


3つの方法があると思います。

1.デプログラミング
 1つは、プログラムをはずすといういう行為があります。
 具体的な方法論については、苫米地先生の洗脳護身術
洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放
(2003/10)
苫米地 英人

商品詳細を見る
に詳しいです。


2.溺れるもののメンタリティーの克服
 お金がないというよう状況や、さまざまな形で基本的な欲求が
 満たされない状況は、即ち溺れるもののメンタリティー的状況は、
 必要以上にプログラムを発火させやすい状況といってよいでしょう。
 であれば、そこから脱する必要があります。
 収入を上げるとか、良い職場にいくといったことは、
 わりとわかりやすい形で、自由を行使しうる環境を提供するでしょう。
 目安として、ハードな残業をせずに、世帯年収1300万円。
 この1300万という数字は、こだわるべき数字です。
 1300万程度の収入があると、それ以上のお金持ちと比べても
 食べ物、着るものといった生活レベルでいえば、それほど変わらないそうです。
 その意味で、貧乏人のフレームをはずす目安としては、
 こだわるべき数字なのです。

3.家をかう
 僕らは、ふだんいつもおまかせ定食を食べているんです。
 普段何気なく生活していると、自らの意思を発揮する機会が非常に少なくてすみ
 ます。
 自らの生活の一つ一つを選択し、コントロールしていくという経験がのひとつひとつが
 自由の良いトレーニングになるのです。
 なぜなら、自由とは、突き詰めて考えていくと、
 望んだことを実現する経験を蓄積していくこと、に他ならないのですから。
 そういった意味で、家を買うということほど、
 望んだことを実現する経験として、
 具体的かつ現実的なことはありません。
 というわけで、家をかうこと、をオススメします。
  

■自由の果て

 こうして、自由になった暁には、どんな世界が待っているのでしょうか?
 実は、そこから先を
 僕は楽しみにしているんです。
 
 自由とは、プログラムから自由になることは最低条件で、
 プログラムの足かせを取り外した先の
 自身から沸き出でる何者かに身を任せて生きていくことではないでしょうか。
 この時点では、コントロールしているという意識もないかもしれません。

 この沸き出でる何者か、これを本来の自分、または超自我といってもいいかもしれません。

 いずれにしても、単なる’穏やかな人’だけでは物足りない気がします。

 そうではなくて、穏やかながらも
 確固とした足取りで生きていきたいと思うわけです


 (了)


2009/03/12(Thu)  自由論コメント(2)トラックバック(0)
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自由論4

■自灯明・法灯明

では、なぜ、自分をコントールできなくなるのか?

それは、プログラムが埋め込まれているからです。
以前ご紹介したように、人間には
’飢えている’という状態に適応するためのプログラム
がそこかしこに埋め込まれています。

僕らが、怖さとか、不安というものを感じる
もの、または、快・不快に関するものというのは、
概ね、プログラムと考えてよいです。


もちろん、そのプログラムが悪いというわけでは
ありませんが、自身の制御がきかず、
自分にとってプログラムが悪く動作するようなら、
書き換えを行う必要がある、ということです。


そして、自分自身の制御を奪うような
プログラムの書き換えを行いつくしてしまおうという思想として
自灯明・法灯明という思想があります。

これは、どういうことでしょうか。

自灯明・法灯明とは、釈迦が入滅する際、
師が亡くなったら、何に頼ればよいのか
と問う弟子に対してはいた言葉であります。

その言わんとするところは、
自らをよりどころとし、同時に、真理をよりどころにしなさい
ということです。

私も含めて、自らの言動というものは、
人から言われたこと、社会的常識、もっと根源的な安心安全欲求などの
プログラムに支配されています。

よくよく考えてみると思った以上に
自らの意思で動いていないことに気づくでしょう。

そこで、これらプログラムから徹底的に解放され
自らをよりどころとして生きよう、というのが
前半の自灯明の意味です。

しかし、自らをよりどころとしただけでは、
それは、自分勝手ということになります。

そこで後半の法灯明が出てきます。

法とは、真理というような意味です。

ここで真理を、客観的真実とか常識と解釈してしまうと、
前半で自分をよりどころにしてといっているにもかかわらず、
後半では、自分以外をよりどころにせよ、といっていて、
矛盾しているように感じられるかもしれません。


しかし、ここでいう真理と単なる客観的真実は違います。

東から太陽が昇るというのは客観的真実です。

真理とは、こういった客観的真実のことではありません。

自らを自身を深く深く突き詰めていくと
普遍的ともいえるようなところまでたどり着くことがあります。
それが事実かといわれれば、証明のしようがありませんが、
真理としか言いようのないところまで
たどり着くことがあります。

例えば、マザーテレサの言葉。
キリストの言葉であっても、ブッタの言葉であっても良いかもしれません。

その言葉の真偽のほどはわかりませんが、信じるに足る
よりどころにするに足る言葉というのがあります。

これを真理と呼ぶのです。

その真理をよりどころにせよ、といっているのです。



■もののけ姫 アシタカの言葉

では、自灯明・法灯明の思想でいきるということは、どういうことでしょうか。

ひとつは、プログラムから自由になり、
自らの意思で選択することです。

その結果、不安から解き放たれて、
あらゆることに迷いや葛藤がなくなり
ありのままに世界を見るようになるでしょう。



こういった世界には、ロールモデルがあります。

みなさんもきっと見たことのある映画です。

それは、もののけ姫のアシタカです。

もう12年前の映画ですが、いまだに覚えている印象的なセリフがあります。

「曇りなき眼で見定め、そして決める」

確かこんな感じのセリフだったと思います。

困難な状況にも、決して不安や葛藤をみせることなく、
平然とこういってのける。


これこそ、自灯明・法灯明を地で行く人物といってよいでしょう。



(次回へつづく)


2009/03/11(Wed)  自由論コメント(4)トラックバック(0)
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自由論3

■良い・悪い 二元論の世界


先ほどから、「あなた自身については、どうでしょうか?」
とか、そういった自分自身に対して、さも反省を促すような
言葉の使い方をしていますが、
このことに関して関して、
ひとつお願いしたいことがあります。

それは、

「制御できていますか?」

⇒「できていない」
⇒自分はだめだ


というように、自身を責めるような態度を取って欲しくない
ということです。

良い・悪いなどという安易な二元論の世界に持ち込んで
欲しくないということです。


私が提供する視点を、ただただ、そのまま受け取ってもらいたい
ということです。

そして価値判断をひとまず保留して、その視点を吟味した上で、
自身でご判断いただきたい、ということです。

それが、これから説明していく自由ということに
深くかかわってくるのですから。



■不安について


さて、自身を制御できないということについて、

あなた自身については、どうでしょうか?



’笑えない’という答えになるのではないでしょうか。

すくなくても、私自身の答えは笑えない、です。


そうなのです。
我々は、自身が制御できないわけです。

わかりやすくいうと、

「わかっちゃいるけど、やめられない」

なわけです。

タバコしかり、お酒しかりです。

良いと思っていることができず、
悪いと思っていることをしてしまうのです。


だから不安になるわけです。

不安とは、アンコントローラブルであることとほとんど同じです。

僕らが不安になるのはどのようなときでしょうか?

例えば金融危機とか、転職するとか、初めてのことをするとき、とか。
不測の出来事がおきるかもしれないという状況があるとき
ではないでしょうか。
つまり、自分でコントロールできない状況であれば、
それは不安につながるということです。

でも、本当は、不測の出来事というのは、絶えず起きています。

世の中の出来事というのは、ほとんど自分でコントロールできないコトだらけなのです。
コントロールできるのは、本当は自分だけなのです。

ということは、我々が不安であるのは、実は不測の事態によって、
自分をコントロールできないような状況が発生する可能性があるから
であるわけです。


逆にいえば、どんな状況になろうと、自分をコントロールすることができれば、
決して不安でない、ということになります。


(次回へ続く)
2009/03/10(Tue)  自由論コメント(0)トラックバック(0)
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自由論2

■アメリカ人の’でぶっちょ’を笑えますか?


前節では、アメリカ人の低所得者層は
インスタントな安心感、即ち摂食に逃避しているという図式になっている
ということを説明しました。


ところで、

この図式を、愚かであると
あなたは笑えるでしょうか?



アメリカ人の高所得者層はどうでしょうか?

アメリカの高所得者層は、確かに太っていないかもしれません。

しかし、過剰な消費活動をしているのは事実ではないでしょうか。

これは、友人のマネーセラピストさんから聞いたことなのですが、
アメリカ人は、購入しているうちの7割は本来いらないものなのだそうです。


’本来いらないもの’の定義は難しいものがありますが、
確かに、いわゆる’食べられる’以上のものを所有していることは事実でしょう。

なんぼなんでも、5人家族で、5台の車も、投資用住宅も、
要らないと思うんです。

ところで、ちょっと脱線しますが、投資という概念は、
必要以上のものを所有するには、きわめて都合のよい概念です。

自分で使うことができないから、
人に使ってもらって、ってことですから。


それはともかく。


そういう風にして、’食べられる’以上のものを所有するということを
時には、収入の範囲を超えてまで、行ってしまいたのが金融危機前のアメリカ人
ということになるでしょう。



■あなた自身については、どうでしょうか?

さて、こうしてアメリカの高所得者層と、低所得者層をみていくと
ひとつの共通した点があることに気づきます。


それは、自身の行動をコントロールできていない
ということです。

アメリカ人の太っちょだって、代謝以上にカロリーを摂取すれば、
太るという事実は知っています。

太ると動くことができないし、熱いし、
なにより容姿の面でマイナスになることは百も承知しています。

そして、その容姿面を含めたさまざまなマイナスポイントが
子孫を残すといった観点、生存といった観点をみても、
決して有利ではないということも。

そういったマイナスポイントを知りながら、
自身を制御できていないわけです。

高所得者についても同様です。

沢山ローンを抱えていると、
そのぶん沢山利子を含めた支払いが
将来の生活に制限を加えるということを、
知っているわけです。

しかし、購入したときの満足感が優先されてしまい、
自分で自分の行動を制御できなくなっているのです。


低所得者と高所得者との違いは、
脂肪をつけているか、物またはローンをつけているかの
違いだけで、それが余分であって、自身を制御できていない
という点は、一緒です。


さて、今、アメリカ人のことを例にとりました。

あなた自身については、どうでしょうか?


(次回へ続く)

2009/03/09(Mon)  自由論コメント(2)トラックバック(0)
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自由論1

■はじめに

今回から、「人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について」シリーズの続編ともいうべき内容を
「自由論」と銘打って、やまいも、渾身の人生論を語っていきたいと思います。

年初、理論の2008年、実践の2009年というお話をしました。

実践とは、自らの生き方を問う、ということです。

これがそのまま、当ブログのタイトルとも重なってきて、
さらに、プロフィールのところには、
「こねた理屈で人類の幸福を希求する。」というようなことも述べています。

今回から、そういう話をするんです。

人類の幸福とはなにか?
そしてその中にあって、やまいもは如何に生きるか、という
そういう実践の文章を書くのです。

前回同様、大げさかつ暑苦しい内容になっておりますので、
覚悟いただきたいと思うしだいでございます。



というわけて、当ブログのエントリーたちも、
ようやく、当初やまいもが何気なくつけたタイトルに
沿ってくるようになってきたなぁ、
という感じがする今日この頃です。

その意味で、ブログのタイトルって重要ですね。


■アメリカ人は何故太っているのか?

さて。

「人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について」(長いので、
以降、進化と金融危機ということにします。)
の中で、語ったことは何だったのか。

それは、溺れる者のメンタリティーで感覚を追求していくと、
それはろくでもない世界が待っている、ということでした。

溺れる者メンタリティーとはどういうことでしょうか。

簡単に言うと、飢える人間の心理といえばわかりやすいと思います。

人類は、その歴史の大半を’飢えている’という状態ですごしています。

人類が類人猿から分かれて、猿人が誕生したのが500万年前。
そして、人類が生産する総カロリーが総人口が必要とするカロリーを上回ったのが、
30年くらい前からです。
ですので、人類の歴史の中で99.9994%は、’飢えている’という状態ということになります。

ということは、人類は’飢えている’という状態に適応するための
プログラムが、そこかしこに埋め込まれていると考えるのが適当です。

アメリカ人は何故太っているのか?

という話があります。

この話は、’飢えている’状態に適応するプログラムという概念を説明するのに
最適な実例を示しています。


アメリカ人の中で、特に太っているのは、
低所得者層です。

考えてみれば、不思議といえば不思議です。
なぜなら、お金がない人ほど、過剰にお金をつかって
カロリーを摂取してしまうのですから。

この現象は、人類にの歴史の中で埋め込まれた
’飢えている’という状態に適応するためのプログラムが
そうさせている、と考えることができます。

つまり、こうです。

お金がないと人は不安になります。
不安であると、一時的な欲望を満たして
インスタントな安心感を得たいと考えます。

人類の古くからある不安の最も大きなものは、
’ご飯がたべられない’ということでした。

ですので、’ご飯がたべられない’という状況を
脱するための行動を取ることが、
安心感につながっていくというように
人類にはプログラムが埋め込まれているのです。

ですので、不安⇒摂食⇒インスタントな安心感
という流れが、繰り返されることになります。

本当は、不安の種に対して、直接的に対処していないにもかかわらず、
です。

これが、アメリカの低所得者層が太っている原因です。


(次回へ続く)

2009/03/08(Sun)  自由論コメント(0)トラックバック(0)
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人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について5

■金融危機の意味を考える上での立ち位置

さて、ここまで、道具立てをひと揃えしたうえで、
改めて、金融危機という、金融資本主義の崩壊を捉えなおしてみたいのです。


ここで、大事なのはこの問題領域をとらえるフレームです。
どのような問題意識で、対象をとらえるかが、極めて大事なのです。


人は、見たいものしか見えないような仕組みになっています。
見えているものと見たものは違うといってもよいかと思います。

つまり、”求めよ、さらば与えられん”です。


よくありがちな、フレームとして、”誰がわるかったのか”
というフレームがあります。

こういう風なフレームで世界を見るというと、
それは、評論家、ということになります。


後出しじゃんけんのように、投資銀行や金融当局の批判をする
人たちがおりますが、いかがなものかと思います。

そんなの最初からわかっているんだったら、
教えてくれたらいいじゃない、という気になります。

他人事のようでもありますしね。


というわけで、金融当局が悪かったとか、投資銀行が悪かっただの
という議論は、ここではいたしません。


また、マネーの暴走を可能にした信用創造という極めて巧妙な仕掛けと、
繰り返される各国の金融緩和政策(これによりマネーが過剰に供給され
あまったお金が一点に投資されることによりバブル経済を招いたという
議論あります。)などが悪い、といったような制度的なものへの批判も展開いたしません。


そうではなく、人類史として、
テクニカルに正しいことができなかったとか、そういう部分も含めて
人類という種としてどういう方向に進むべきなのだろうかと、
そういうふうな視点で考えたいと思っているわけです。





■金融危機の意味に関する2つの考え方



金融資本主義の目指したもの、ひいては人類が目指してきたものとは何だったのか?

それは、これまでお話ししてきた文脈でい言うと、

「感覚の肥大化」

です。


要は、良い感覚即ち快を沢山得たいということです。
極めて人間的かつ、人類の進化の観点で、極めてまっとうな方向性であった云えます。



それ故、問題が難しいわけですが、
その問題も、貨幣、感覚といった観念上の事柄が問題であるわけですので、
観念上の操作で解決できる、と私は考えているのです。
それはともかく。



金融危機というのは、今まで議論してきた文脈からいうと

貨幣という感覚肥大化装置をつかった、感覚肥大化路線が、
曲がり角をむかえた、

ということになると思います。

そこで、問題なのはこの”曲がり角”の意味についてです。


2つの見解があるのではないかと思います。



■足るを知る?


ひとつは、感覚の肥大化路線そのものに対する、否定です。

この感覚の肥大化という進化の暴走は、無理があるという考え方です。

進化の暴走は、時として、生存の危機をもたらすほど
暴走しすぎるきらいがあります。

鹿の角しかり、キリンの首しかりです。


感覚の肥大化ということでいうと、
僕は、マイケル・ジャクソンを思い浮かべてしまいます。

彼ほど、いわゆる”よい感覚”つまり、快を純粋に求めた人物はいないのではないでしょうか。

その結果は、どうなったでしょうか?

ネバーランドは競売にかけられ、顔面は崩壊するという。
凡そ、一般的な幸福のイメージではありません。

となると、感覚の肥大化=悪、故に、

慎ましやかに生きろ
 
 とか

足るを知れ

とかそういった、陳腐は結論がちらついてきてしまいます。

本当に、こんな陳腐な結論いいんでしょうか?



■感覚貨幣の可能性


もうひとつの見解は、感覚と貨幣の関係性において、
限界がきているという考え方です。


実体経済という言葉があります。

実体経済というのは、こういうことです。

僕らが働いて、給料をもらって
そのお金で、商品をかって、その商品を作るのに
企業がお金をかりて、設備投資して
という、そういったプロセスがありますが、
そのプロセスのなかで流れるフローの総量
これを、実体経済といいます。


それに対して、お金の量は、この実体経済以上に存在しています。
それに対する解釈は、貨幣の保存性によってもたらされた
富の蓄積と説明してもよいでしょうし、
貨幣が観念的な存在であるため無から有をつくることができる、
と説明してもよいでしょう。

例えば、保険商品。これは、保険という観念がなかったら
存在しない商品です。しかし、リスクヘッジという観念を創出したことによって
サービスが増えるということがおきます。それに付随して
貨幣も増えるという仕組みになっています。
ちょっとここのところは、わかりにくいところですが、
お金の流量というのは、人々の観念の総量、欲望の総量に比例します。
というのも、信用創造という仕組みによって、
随意にマネーは生むことができるからです。


いずれにせよ、普通に生活をするのに必要なお金の量(実体経済)
と、際限のない感覚世界が共通の通貨を使っているため
感覚世界のボラティリティ(※)が、簡単に実体経済を飲み込んでしまう、と。

ここが問題であると考えることができます。

(※)感覚世界は、バージャルであるためきわめてボラティリティが
  大きいという性質を持っています。

ということになれば、解決策はひとつです。

実体経済の貨幣と、感覚世界の貨幣を分離すること、です。

つまり、感覚貨幣の可能性を模索することになるわけです。


■ わかりにくい結論

さて、今紹介した2つの解釈ですが、やまいもとしては、
どっちを支持しとるんじゃ、という声が聞こえてきそうです。

当然、後者ですよね、と思われてしまいそうですが、
そうでもない、というのが、本シリーズの非常にわかりにくい
結論となるわけです。


人類というのは、、いままで私が切々と議論してきたようなことは
うすうす気づいているのではないでしょうか。
やまいもにいわれるまでもなく。

確かに、実体経済が感覚世界と分離されてくれば
安定した世界経済がもたらされるかもしれません。

そして、溺れている人から見れば、
船の上の人は、さぞかし、優雅に見えるでしょう。

しかし、僕らが求めているのは感覚だ
ということを思い起こしてもらいたいのです。

そうなると、溺れているという状況が解消された暁には、
どうなるでしょうか。

やはり、感覚を追求しに行くことになるのです。
そして、その成れの果ては、マイケル・ジャクソンわけです。
成れの果て、という否定的な表現をつかいました。
すべての人が、マイケル・ジャクソンになるわけではありませんが、
金融危機の直前まで、アメリカで行われていたことは、
マイケル・ジャクソン的状況であったと思います。

その限界に、人類は気づいてきていると思うのです。
溺れるもののメンタリティで、感覚を追求すると
マイケル・ジャクソン的状況へ行き着く
ということを。

では、その限界の先にあるものはなにか?

それは、自由であると思うんです。

そう、足るを知った後、溺れる状況を達した後、
人が求めるもの。

それは、自由であると思うんです。

そのことについては、今後、ゆっくり語っていくとして、
ひとまずは、今シリーズは、終わりにしたいと思います。


(了)

2009/03/01(Sun)  人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味についてコメント(4)トラックバック(0)
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人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について4

■衣食足りて?


古の言葉に、
衣食足りて礼節を知る
という言葉があります。

人間は脳の機能を使うことによって、
未曾有の繁栄を手に入れました。

一応、食える、という生命にとっての最重要事項を
多くの個体が手にすることが可能な状況となりました。

そして、その結果、どうなったでしょうか?

礼節を知るようになったのでしょうか?


そうでないことは、前の文脈からいって明らかですね。


人類というのは、礼節を知る代わりに、
貨幣という感覚肥大化装置を最大限利用して、
感覚の肥大化を加速させる、ということをやりました。


当然といえば、当然です。

生命の基本原理として、機能は暴走するという原理があるのですから。


■金融資本主義とは

そして、行き着いた先が金融資本主義です。
金融資本主義については、以前もご紹介しましたが、
今一度バックトラックしておきます。

金融資本主義とは、一言で言うと
お金がお金を生む世界です。

本来お金とは、物・サービスの引換券であったわけです。
つまりは、本来価値のあるのは、あくまで物やサービスです。

しかし、ここでまたしても、機能の乗っ取りが起こります。

本来、お金は価値のある物やサービスを得るための手段であったものが
目的化される、ということが起きるわけです。

つまり、物やサービスを得ることを目的にお金を獲得するのではなく、
お金そのものを目的とするのです。

こんななことが可能であるのは、先に説明した感覚ということと関係があります。
実は、人間が求めているのは、本質的には、
物やサービスを得ることによって得られる感覚というお話をしました。

感覚ということは、要は、観念です。
観念であれば、如何様にでも、操作可能である
ということになります。

つまり、どんなことに対してでも価値付けて、感覚を満足させてやってもよい、と。
極論するとそうなるわけです。

そこで、お金という、単なる、貝殻か金属小片か紙か、
よくわからないけど、みんななんだか信じているという
そういう代物をでっち上げて、それに対して感覚の満足をもとめた、と。
そういうことになります。


■金融資本主義の起源

こういう風にいうと、さも貨幣というマジックをつかって、
怪しげなことをやっているという風に見えるかもしれませんが、
実は、この金融資本主義の出現というのは、
貨幣の性質の中に内在されていていたものなのです。

その性質とは?

実は、先に紹介した文章の中に答えは埋め込まれています。

勘のいい読者はもうお気づきかもしれません。

そうです、お金は腐らないということです。

お金は腐らないので、ほっておくと動こうとしません。

つまり、情動を満たすために、情動を満たしたい人の所に
移動するということをやりたいわけですが、
お金本人にとっては、移動する動機がありません。

このため、人類は極めて巧妙な仕掛けを考え出しました。

それは、”金利”という代物です。


お金は情動を満たす手段なわけですが、
移動する先にとっては、お金を使うことによって、
移動する元にとっては、お金が増えることによって
双方の人間の、情動を満たすような
仕掛けというのが、金利であったわけです。


こうして、発明された金利ですが、
プリミティブには、双方の情動を満たすということであったわけですが、
これが、思わぬ副作用をもたらすことになります。

それは、お金が時間の経過とともに自己増殖するという
副作用です。

本来は金庫にしまっておけば、増殖とは無縁のものでしたが、
保管するということは、今は使わないということですから、
貸与することができるということです。

当初は自分で保管するということが、デフォルトでしたが、
人に貸すということがデフォルトになると、
金利が付くのが当たり前という事態になってきます。

こうして、お金のデフォルトの性質として
自己増殖の属性が付け加わることになります。


こうなると、自己増殖の属性が強さが、
さらになる情動を満たす対象として、クローズアップされてくることになります。

こうして、金融商品があまた生成され、
その金融商品がその優位性をめぐって競争することになったのが、
金融資本主義であったというわけです。




次回へつづく

2009/02/18(Wed)  人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味についてコメント(4)トラックバック(0)
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人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について3



■知性と情動の発達の意味

さて、この知性と情動を発達させたということは、
どういうことでしょうか。

まず、脳の機能は、もともとは、環境へ柔軟に対応する
ためにありました。

ところが、ここで、前出の”機能の乗っ取り”が起こります。


そもそも環境への適合のために、
情動という「緩衝材」をおいたわけですが、
この緩衝材が自己目的化されるということが起こってくるのです。

つまり、情動を満足させることを目的として、
人類は、驀進し始めるわけです。

本来は、生存に有利な状況が欲しかったわけですが、
生存に有利な状況にひたっている感覚そのものを
欲しがるようになります。

ここは、微妙ではありますが、大変重要且つ
本質的な違いです。


例えば、食べきれないほどの食料は、生存にとっては必ずしも
必要ありません。

しかし、生存にとって有利な状況に浸っている感覚を求めるようになった人間は、
食料を得たときに得られる安心感が欲しいので、
食べきれる以上の食料が欲しい、ということになります。

食べきれる以上であっても、人間が希求しているのは
食料を手にしているというその状況がもたらす、満足感、安心感
という感覚そのものを目的にしているため、
「いくらでもほしい」という状況が起こってくるのです。

この感覚というのは、いってみれば際限がないわけですので、
その”暴走”の仕方は、桁違いのものとなります。


その桁違いの暴走が、今日の文明という形で、
人類が自然界を席巻するに至っているという事実につながっていきます。



■貨幣の誕生


この際限がないという感覚の特徴を助長するツールとして
誕生したのが、貨幣です。

貨幣には、次の3つの機能があります。

1.価値保存機能
2.価値交換媒介機能
3.価値尺度機能

このなかで、もっとも重要なのは、1の価値の保存機能です。

2,3は、物々交換の世界でもある程度可能なものでした。

しかし、1の機能は、貨幣にだけしかありません。
そして、この機能こそが感覚の肥大化にとって、極めて大きなインパクトを
もつのです。

1の価値保存機能とは、もう少しわかりやすい言葉で言えば、
お金は腐らないということです。

物々交換の世界、例えば、お米を例にとって見てみましょう。

お米の場合、年月を経ると、悪くなってしまいます。

つまり、保存ができないわけですので、
お米を消費できる分しか、価値を獲得できません。

しかし、これが貨幣という腐らないものによって
価値が媒介されるとどうなるでしょうか。

よく、お金はいくらあっても邪魔にならない
といういわれ方をしますが、この言葉が雄弁に物語っています。

つまり、邪魔にならないので、情動を満たすための
欲求がどんどんエスカレートしていく、ということが可能となります。
つまりは、進化の暴走です。


お金は腐らないという性質が、感覚の無限性(際限のなさ)にとって、
極めて相性のよい代物であるとことが、お分かりいただけたことと思います。


次回へつづく
2009/02/15(Sun)  人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味についてコメント(0)トラックバック(0)
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人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について2

前回、進化の暴走ということをお話したわけですが、
進化ということを考える上で、もうひとつ
需要な事実があります。

それは、

機能の乗っ取り

という概念です。



■機能の乗っ取り

鳥の翼というのは、もともと、保温目的であったそうです。

知ってました?


このように、生命体というのは、
目的に従って進化しているというより、
たまたま手持ちの持ち物で何とかしてしまう
ということをするようです。


以前ご紹介した「できそこないの男たち」という本の中にも、
男は女から派生したというようなことが書いてありました。

できそこないの男たち (光文社新書)できそこないの男たち (光文社新書)
(2008/10/17)
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つまり、パーツとしては女が生命体の標準仕様である、と。

その標準仕様をカスタマイスして、つまり、
本来、女性用の器官として作られたパーツを
カスタマイズして、男性用の器官として
作り変えた、と。

それが証拠に、男性の部分に、女性のそれを
縫い合わせた「縫い目」を確認することができます。

このようにカスタマイズしたため、こんなできそこないの個体、
即ち「男」が出来上がってしまったわけです。

出来損ないであることは、
平均寿命をみても、
犯罪者にこれだけ男女の偏差が見受けられることからも、
明らかですよね。

男性ホルモンが、免疫系を痛めつけるという
そいういった”欠陥”もあります。

ちょっと話は脱線しましたが、
まとめますと、
生命体というのは、目的をもって
器官・パーツをつくっているのはなく、
たまたま今ある自分の持ち物の本来の
目的を違えて、別の目的に流用してしまう
ということをしばしば行います。

このことを、機能の乗っ取りと呼ぶことにします。



■脳の機能

さて、次に、上記の進化の暴走、機能の乗っ取り
という観点で、人類の特徴を考えてみることにします。

人類の特徴は、何といっても脳の肥大化です。

脳機能の暴走といってもよいでしょう。

そもそも、脳の機能とは何でしょうか?


もともとは、神経系のコントロールセンターであったと考えられます。

神経系のコントロールセンターということは、
より生存に適合しやすい動作を行うことができるように、
的確な判断を行うための回路が集積した場所といった意味です。


そして、それが、次第に高度化していった、と。

高度化していったことによって、何がうまれたか。

それは、知性と情動です。

本来、外界の情報を取り入れて
特定の生存に適合しやすい反応を作り出す
のが目的でしたが、その反応が機械的であるより、
より柔軟に多様な判断ができるように、
その判断過程を高度化・複雑化していきました。

その過程でうまれたのが、
知性と情動です。


■知性と情動

知性とは、簡単に言えば、対象と分離するということです。
名前をつけて、その対象を自身と分離し、
取り扱える形にするということです。
実際の現象面で言うと、言語獲得と整合的です。
脳の部位で言うと、新皮質にということになるでしょう。


それに対して、情動とは、感情・感覚のことです。

生存に有利な状況に対して、快、
そうでない状況に対して、不快
という風に色分けして、外界からのインプットに対して、
一旦、感情・感覚に翻訳して、
その感覚を通じた判断過程をへたうえで
反応ということをやってやります。

こうすることによって、インプットからアウトプットまで、
時間がかかる反面、その感情・感覚の部分を書き換えてやることによって、
より多様な反応が期待できるようになります。

さらに、この感情・感覚の部分を通過して、知性の部分で
判断処理を行うとさらに、反応速度は遅くなりますが、
より多様な反応が期待できることになります。


この情動の部分を処理するのが、特に辺縁系ということになります。
(ちなみに、この情動の部分まで到達しないで処理を行う場合、
 それは、小脳での処理ということになります。)

辺縁系は、実は、脳の最も古い部位のひとつで(魚類にも存在することが
報告されています。)、大きさでいうとそれほど他の動物と変わることがありません。

しかし、人類は、この辺縁系で処理を行う情動の表出、及びその表出された情動を察知する能力
に関して、極めて高度に発達させてきました。

そのひとつが、表情です。
人間は、笑うことのできる、唯一の動物だといわれています。

他にも、その他、情動を表出する手段として、音楽・踊りなど
さまざまな、方法を発達させてきました。

と同時に、その情動を受信する能力においても、高度に発達させました。
(たとえば、人の視線に対する感受性は極めて高いものがあります。)




次回につづく

2009/02/14(Sat)  人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味についてコメント(2)トラックバック(0)
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人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について1

人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について
という、ちょっと遠大なお話をしようと思っているのです。

3回分くらい分量の話になりそうです。

少し休んだ分、空想がとめどなく広がって云ったようであります。


■右利き・左利きのメカニズム

ところで、赤ちゃんって、両利きであるって知ってました?
そう、つまり、生まれたときって右利きでも、左利きでも
ないんです。

これは、どういうことかというと、
人間は3歳くらいまでに脳細胞同士の結合(シナプス)は出来上がってしまって、
あとは、できあがってしまったシナプスが壊れていくだけなのです。

つまり、人間は最初右利きでも左利きでもあるわけで、
だんだん右利きの人は、左利き用のシナプスが失われていく、と。

それと同時に、右利き用のシナプスが強化されていく
といった具合になっています。

これが、右利き・左利きのメカニズムです。

この過程というのは、実に示唆的です。

そもそも人間は、初期段階としては、、可能性として
”全能”であるわけです。
(よく人間には無限の可能性があるといった言葉はありますが、
 これは、上記のような意味では正しいわけです。)

それが、だんだん可能性を失うことによって
有能になっていくという、こういったプロセスを経ます。

そのプロセスとは、端的に云うと
”得意なことばっかりやる”ということです。

つまり、シナプスとして、”通りのよい”方ばかり
使ってしまうのです。


■進化の暴走

この右利き・左利きのメカニズムにみられる
”得意なことばっかりやる”という原理は、
生命界全体に見られる傾向のようです。

それが、これから説明する”進化の暴走”という現象です。

進化ということ、云うまでもなく、ダーウィンの進化論なわけですが、
その言わんとするところは、適者生存です。

つまり、環境に適合した個体が生き残り、
子孫を繁栄させていくという考え方です。

大枠はこれで正しのでしょうが、
そうとも言い切れない例が自然界には沢山あります。

例えば、キリンの首。
これは、ダーウィンの進化論的にいうと、
首の長いほうが、高いところにある食べ物をとることが
できたので、より環境に適合し、子孫を残せた、と。

ところが、この”得意なことばっかりやる”原理で
説明すると、どうでしょうか。

そもそも、生命というのは、”得意なことばっかりやる”傾向がある、と。
そのうえで、あるとき、キリンという種族は、首をのばすということに関して、
シナプスとして”通りがよく”なってしまったと。


そのため、キリンにとって、首を伸ばすということが、
生存に有利だったわけではないにもかかわらず、
”得意なことばっかり”やりつづけて、ついには、
ああなってしまった、と。

考えてみると、あのキリンの首はどう考えても
生存に有利とは云いがたいですよね。

なんぼなんでも、あんなに首長くなくたっても、
えさはあるだろうし、あれだけの高さに血液を循環させないと
いけないとなると、普段、相当貧血気味なのではないかと
人事ながら心配になってしまう。

そして、”得意なことばっかり”やりつづけた結果
それこそ、生存にぎりぎりのところまで、暴走し、
今の形となった、と。

このように説明されるわけです。


この”得意なことばっかり”原理によって、
生命は、ひとつの方向に、機能を極限まで暴走させてしまう
という特徴のことを、進化の暴走と呼ぶことにします。


この進化の暴走としかいいようがない例として、
鹿の角、孔雀の羽などがあります。


ちょっと長くなってきたので、続きは、次回。

2009/02/13(Fri)  人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味についてコメント(0)トラックバック(0)
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引越ししたよ!

大変久しぶりの更新になってしまいました。

というのも、仕事がしゃれになっていないほど
多忙であったり、土日にセミナーを聴きに行ったり、
そして、新居への引越があったり。

そう、そうなのです。とうとう新居に引越ししてしまったのです。

このブログでも、一時家のことをやたら書いていた
時期がありました。

そのころは、金融危機も起こっておらず、
2007年よりは、すこし景気は悪くなってきたけど、
今から比べれは、牧歌的と表現すら浮かんでくるようです。

まあ、その頃から紆余曲折をへて、とにもかくにも
新居を獲得したというのことで、ほっとしている
というのが、今の心境です。

今日は久しぶりということで、このくらいにとどめておきます。

今後は更新のペースを少し密にしようかと思っています。
なんせ、今まで1時間半の通勤時間が15分、
往復で3時間が30分だから、2時間半時間的に余裕ができたことに
なるのですから。

いままで、書きたくても時間がなくてかけなかったものを
ゆるゆると、筆を進めていきたいと思います。






2009/02/07(Sat)  未分類コメント(6)トラックバック(0)
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「空気を読む」という言葉に内包されている危険な側面


「空気を読む」ということは、周りとの関係を円滑に保つとか、
情報をいきわたらせて、それによって自分も含めた周囲のパフォーマンスを上げていくという、そういった趣旨の言葉であると思う。

確かに、そのとおりで、「空気を読む」ことは、ビジネスが現場でもまれながら生きていくのに極めて有用なスキルであるとおもう。

しかし、そのことを意識すると、ちょっと危険な側面がるのではないかと、今日は、そういう話をします。



ものごとを推し進めるには、柔軟さが要求されてきます。

自身が正しいと思う事柄について、実直に進めていこうとすると、周囲から攻撃をうけてしまうこともままあります。

であるから、その反省として、空気を読みなさい、と。
そうなるわけです。

でも、ちょっと行き過ぎると、空気を読むということが、他人からの攻撃から身を守るという意味に曲解されることもあるのではないか、と、そう思うんです。

それを柔軟性なんていうことばで、華麗に装飾したりなんかして。


例えば、上司にあんまり納得していないことを命令されて、空気を読むのが得意ですから、その上司の意をくんでしまうと。そして、いざやろうとすると、別のほうから横槍が入り、その横槍に対して、うまく説明できずに、ぐずぐずの状態になる、なんてことはあるんじゃないでしょうか。


空気を読むとは、別の言葉で言えば、相手の顔色を伺うということです。
この態度は、相手の顔色が主体であって、それに対するリアクションでしかありません。
そして、視線の先は、当然ながら相手があるという形態をとっています。

そうなってくると、相手から攻められないという、防御が目的となってしまうのです。
こういうのを本末転倒といういうのではないでしょうか。

防御なんていうのは、後から考えることであって、
まずは、自分の正しい道を進む、そして、そこのは無私の精神で。

無私の精神というのは、極論すると相手を慮らない態度です。
と同時に、自分も慮らない態度です。つまり、人から攻撃されることをいとわない、ただ、実直に対象を直視するということです。
視線の先は、自身や組織の抱える問題・課題であり、仕事とそのものであるわけです。

まずは、そこに視線を誠実に向けなさい、と。
そして、そこから、導き出される道筋をただひたすらに、これが正しい、と。
まずは、そう思う。
そして、これが正しいと、周りに向かって、そう、云うのです。

そこに、きっと、静かながらも、言葉の強さとでも言うものが出てくるのだと思います。


無私の精神が生み出す、言葉の強さがあって、初めて、そこに交渉ということが、成立するのだと思います。

交渉というのは、相手の芯というベクトルと自分のベクトルという芯の調整のことをいうのですが、まずは、自分のベクトルというのが、なければ、そもそも調整にならないわけです。

二つの違うベクトルがあって、そこに初めて、相互理解という営みを経て、お互いの着地点を見つけることができるのです。

もし、交渉が不調であったときは、胸に手を当てて考えてみるといいと思う。
そこに、防御を主体とする、「空気読み」又は「柔軟さ」が先行していかかったか、と。


ちなみに、無私の精神のイメージとしては、黒澤明監督の「生きる」の癌に侵された主人公になるんじゃないかと。


2009/01/05(Mon)  未分類コメント(2)トラックバック(0)
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ベーシックインカムについて考える

さてさて、2009年のはじまり、はじまりといった感じで、大人の人生ブログはじめていきたいと思います。

ベーシックインカムという考え方があります。

これは、山崎元さんのブログで知った考え方なのですが、
スッキリしていて、非常におもしろい!と思ったので紹介します。

(詳しくは、以下のブログを参考にしてくださいね。ちなみに、ホリエモンも興味をしめしているみたいです。)

http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/df9729ff82024e97dd3447d08d9c5f27

http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/39789e023a0ba7d25be7d882d9fc84d8

http://ameblo.jp/takapon-jp/archive7-200812.html#main


ベーシックインカムとは、要は、定期的にみんなにお金を配っちゃえ、ということ。ポイントは働いていても、いなくても関係なくみんなに、というところ。

こうすると、いままで、生活保護を受けるのに、本当に働けないのか? とか 本当に財産ないの? とか、役人をつかってものすごく面倒なチェックを膨大なコストをかけてやっていたのが、いらなくなると。そりゃ、無駄が省けていいよね、というのが基本的な発想。

そして、社会保障や社会福祉はなるべくベーシックインカムに集約してやって、それ以上のサービスが受けたいのであれば、どうぞ、民間でやってください、ということになります。

そうなると、とってもスッキリしたことになって、究極的な「小さな政府」が実現できてしまうことになる。
ついでに、所得税の一律40%とかしちゃえば、なお、「小さな政府」にできますよね。

昨年の終わりあたりから、新自由主義路線、即ち、「規制緩和+小さな政府」のことを批判するようなことをいってきたので、僕がはなしてきたこととは、全く逆のベクトルではあるのですが、これはこれで納得という感じがします。

僕がまずいとおもったのは、行き過ぎてしまったということろ。新自由主義もいいところが沢山あったのだと思います。たとえば、資本が効率的につかわれるところ、立場の違う複数の人の意見が集約される市場という仕組み(これを多元主義といいます)、これは、やはり、大変優れたものであると思います。また、その優れた市場原理が働かない、役所をはじめとする官の論理には、大変な無駄があるというのは事実だと思います。
ですので、これらの、非常にすばらしいところは、可能な限り残す、その上で行き過ぎた部分を見直す、これが現実的な方向性かと思います。

さて、このベーシックインカムの考えが革新的なところは、「働かざるもの食うべからず」という常識を覆してしまう所です。この「働かざるもの食うべからず」という、プレッシャーのためにどれだけ、人が縛り付けられていたか。どれだけの人が夢をあきらめたのか。どれだけの人が不安におびえて、「好き」を判断基準にするのではなく、「生活」を判断基準にしたことか。どれだけ、不安のため、過剰な預貯金が日本経済を悪くしてきたことか。

このいわば、「労働からの解放」がもたらす意味は、予想以上に大きいものになると思われます。

老後の不安のための預貯金が消費に回り景気が回復するかもしれませんし、以前創る男と守る男というエントリー(http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-197.html
)の中で述べたような、創る男(=おもしろいやつ)がふえるかもしれませんし、イメージ的には、落語の世界のように、熊さん、八っつあんの世界、つまり、働いているだかいないんだかよくわからないけど、でも、なんだか楽しげで、という豊かな世界がまっているのかもしれませんし。

まあ、多少過激なところはありますが、、おもしろそうなことがいっぱいありそうで、なんだか、いいなと思います。




2009/01/04(Sun)  未分類コメント(2)トラックバック(0)
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理論の2008年、実践の2009年という形で

去年一年間、ずっと経済のことを話してきたように思います。

これも、家を買うことになって、変動金利にしようか固定金利にしようかと、迷っていたことがきっかけでした。

これを決定するには、世の中の経済がどのようになっていくのか先を見通さなければなりません。
そこで、いろいろ調べ始めました。「なんで長期金利は変動するねん」、「なんでこんな原油高いねん」とかやっていたら、いつの間にやら金融危機が起こり、気がついたら深みにはまっていたという塩梅です。

まさしく生きた金融の勉強を、この金融危機の只中でリアルタイムできたわけであり、とてもラッキーなことでした。

だって、こんなタイムリーに、適度に熱心な動機があってという機会はそんなにないんじゃないかと思うのです。
これが平時であれば、退屈な教科書をくらいが関の山です。きっと挫折していたでしょう。


こうして勉強できたおかげで、少しは結構世の中のことがわかるようになったと思いますし、政治家や評論家が言っていることを鵜呑みにするのではなく、割と的確に評価できるようになったのではないかと思います。

そしておぼろげではありますが、僕らがこれからどういう社会を目指していけばよいのか、そんなことも見えてきたようにおもいます。

それは、それで結構なことなのですが、
そこで新たな問題も持ち上がってきました。

それは、僕は為政者ではない、ということです。

つまり、僕は考えて、お話している言葉は、「自分がすることではない」ということです。
もちろん、一国民として、広い意味では自分の行いといえなくもないですが、自分で意思決定できる範囲を超えています。
そうなってくると、立場としては、いわば、「評論家」です。それは、つまり、実践者ではない、ということです。

そのことに、ちと、物足りなさを感じてきている自分がいるんです。
そこで、今年はもっと、自分の行動に落とし込んだお話をしていきたいなぁと考えるようになりました。

あるべき社会のイメージは、なんとなくできてきているので、そのイメージにを自分の行動に落とし込んだ話をしたいなぁと考えるようになったのです。
もちろん、これからも、時に、社会のあるべき姿を解説するときもありますが、それと同時に、「実践者」としての自分を表現していけたらと思います。

というわけで、理論の2008年、実践の2009年という形で、進化したエントリーをお届けできるようにしたいという、今年の抱負なのであります。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


2009/01/04(Sun)  未分類コメント(2)トラックバック(0)
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豊かな消費~解決編2~

前回から、豊かな消費社会を実現していく上での解決編をお話しておりますが、
今回は、前回は短期的な施策をご紹介したのに対して、もっと重要な、中長期的な施策についてお話していきます。

まず、問題の状況というのは、需要が枯渇しているということでした。

需要が枯渇してるということは、もう少し詳しくお話しすると
消費する人のところに、お金が行き渡っていないということです。

この”消費する人のところに、お金が行き渡っていない”ということは、
どういうことなのか?

お金の全体量が少ないの?

それとも、お金が偏在しているだけなの?

ということですが、結論から申し上げると後者が正しいわけです。

こうなってしまったのには、2つの要因があります。

ひとつには以前にもご紹介したとおり、新自由主義が行き過ぎてしまったということです。
つまり、レーガン、サッチャー以来、日本をはじめとする世界の先進国が推し進めてきた新自由主義は、物の供給サイドの能力を上げるということでした。
需要サイドの能力を上げるということは、投資家を優遇するということです。
その結果、物を消費するべく庶民にはお金がいきわたらず、端的に言えば投資家たち即ちお金持ちに、お金が集中するようになってしまいました。

お金持ちは自分で使いきれないお金は投資します。
投資したお金は基本的には、企業にいきますから、結局、個人消費にはつながりません。


もうひとつは、世代間での富の分配がうまくいっていないということです。
現在、日本の金融資産の75%は、60歳以上の人口に偏在しています。
そして、その金融資産の半分は預貯金です。預貯金は基本的に企業に行きますから、これまた、消費にはつながりません。

ちなみに、老人が亡くなるとき、一人当たり3500万ほど残していくという統計があるようです。
消費等観点で見た場合、これほど非効率がことはないんじゃないかと思います。
これも、政治の役割である、「安心」を提供できなかったのが原因かもしれません。
そういった意味で、消費不振の責任は多分に政治にあるといえるかも知れませんね。


こうして、お金持ちと高齢者に富が集中してしまった結果が、現在日本の消費不振の構造をもたらしているといえます。

では、どうすれば、豊かな消費社会を構築できるかということですが、この消費不振の構造を変えていくというのが、本質的な解決策ということになります。

で、如何にしてこの構造をかえていくか、ということですが。


1.相続税100%
  以前相続税100%にするというお話をしました。

  http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-77.html

  こうすると、お金使うと思うんです。なんせ、高齢者たちはお金持ちですから、
  この政策、消費に関してはかなりのインパクトをもつのではないかと思われます。
  さらに、この高齢者が消費するということは、高齢者から若者への所得移転
  という側面があるのも、この施策が理にかなっているところ。

2.低・中産階級減税
  これは、まさしく需要サイドの能力を上げてやるための施策。
  
3.法人税UP
  これは、これまでの行き過ぎた新自由主義を是正するため施策。

4.社会保障の拡充
  これは、安心しないとお金はつかえません、ということ。

5.少子化対策
  消費する人=若者の絶対数を増やします。また、恋愛・結婚・出産・子育て
  というのは、消費という側面で考えた場合、巨大な影響力があります。

6.ワークライフバランスの確保
  消費するには、お金があるだけではいけません。時間が絶対に必要です。
  特に豊かな消費ということは、別名、こだわりの消費ですから、
  絶対的に時間が必要になってきます。

7.社会インフラの整備
  消費をしたくても、インフラが整備されていないため消費に結びついていないようなところ、
  例えば、高速道路。これを、整備してやります。
  また、こうして財政出動してやることにより、雇用を確保します。
   
まあ、割と当たり前の政策ではありますが、日本には1500兆の金融資産があるわけで、これが動けば、かなりのことができるのではないかと、本気で期待しているわけなんです。

2008/12/31(Wed)  未分類コメント(2)トラックバック(0)
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プロフィール

やまいも

Author:やまいも
金融系システムの仕事をしています。
趣味は理屈をこねること。
そして、こねた理屈で人類の幸福を希求する。
これが私の願いなのです。

代表的な記事としては、次のものがあります。

「空気を読む」という言葉に内包されている危険な側面
人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について
自由論
HappynessとSuccessそして有能であるということ
やさしさについて
自我(エゴ)

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