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大人の人生はおもしろいか

この質問に答えようとすること。これこそが、僕らの創造と豊穣の源泉なのである。

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フローと自己(エゴ)5

さてさて、今宵もフローに関するあれやこれやを元気に語っていきましょう。


■自意識のない自己確信

当初、自己の問題に関するあれやこれや、ということでお話をしてきました。
もう一度、その問題を復習しておくと、

”常に曇り空のように存在している自分”というものを疎ましく感じる、と。
そこで、この自己を何とか希薄化して、より清浄な内的環境を保持することはできないか、

という問題でした。

この問題に関して、その周辺については、なんとなく語っていつつも、その核心についてダイレクトにふれた箇所はなかったと思います。

今回は、その核心部分、やまいもが、フロー理論の中でもっとも感心した部分について語ることにします。


まずは、原文を抜粋。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
リチャード・ローガンが厳しい肉体的試練を生き抜いた人々ー北極への単独徒歩探検家、強制収容所の衆人などーについての研究で明らかにしたように、このような人々に共通した態度は、自分の運命は自分が握っているという信念を暗黙のうちに持っているということであった。彼らは自分自身の運命は自分の能力によって決定できるということを確信していた。その意味で、彼らを自信家と呼ぶことができるだろうが、同時に奇妙なことに、彼らには自我が欠如しているようにも見えるのである。彼らは自己中心的ではない。彼らのエネルギーは、典型的には自分の置かれた環境を支配することではなく、この環境の中で調和しながら行動する方法を見つけ出すのに向けられるのである。
このような態度は、人がもはや他のすべてに対する自分の目標や自分の意図の超越を強調する個人として、自分を環境に対立するものとは認識しなった時に生じる。彼は彼自身を周囲に起こることすべての一部と感じ、彼が関わらなければならないシステムの中で最善を尽くそうとする。矛盾したことだが、この謙虚な感覚ー自分の目標はより大きな実在に従属すべきであり、も苦境を達成するには自分の好みとは異なるルールに従って行動しなければならないという感覚ーは、強い人々の特徴である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                      
 (「フロー体験 喜びの現象学」より)


この抜粋の中に、上記の疑問に対する完璧すぎる回答が示されているのではないでしょうか。

いわゆる「我」といったらよいのでしょうか、自己という言葉に含有する「我」の部分を薄め、環境と一体となり調和した姿にこそ強さがある、といっています。

上記の態度のことを、「自意識のない自己確信」という表現でチクセントミハイ氏は表現しています。なかなか、素敵な表現だと思います。

そして、このような態度を取ることができる人が、生活を秩序付け、どんな困難な環境にも押しつぶされることなく、その生活をフローに変換しうるのだ、といっています。


■価値観の開放

全く、すばらしすぎる回答です。

意志はあれど、執着はない。
イデオロギーに生きるのでもなく、肩の力を抜き、あくまで現場に注力し続ける態度は、あらゆる選択肢を模索する余裕を与えます。故に、すばらしく有能であると考えることもできます。

このステートに立ったとき、人は「最強」かつ「最幸」であることができるのではないでしょうか。


では、どうしたらこのステートに立つことができるか。


それは、「価値観の開放」となるのではないでしょうか。
(この部分は、チクセントミハイ氏がいっているのではなく、やまいも、の独断です。)

僕らは、「我」の部分が顔をのぞかせるのは、多くは自身の価値観に合致しない事象に出会ったとき、その現実について苦々しく思うといった場面です。

つまり、要約すると、価値観があるから「我」と現実が衝突する、というわけです。
であれば、価値観がそもそもなければよい、と。
そうなるわけです。

ちょっと待った、じゃあ、それじゃあ、そもそもの大目標すらなくなってしまうのでは?

という最もな疑問はあるかと思います。

全くその通りで、ここで「価値観の開放」といっているのは、大目標は強くもつ必要はあれど、中途半端な中間の価値観は要らない、という意味です。


以前、坂本竜馬の自己意識というエントリーの中で、竜馬の自己の運用方法について述べたことがありました。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-228.html

この文脈で考えてみると、坂本竜馬の成功が良くわかる気がします。

つまり、坂本竜馬は、「価値観の開放」⇒「自意識のない自己確信」⇒「フロー」というルートを経て、成功したと見受けられる節がいくつかあります。

まず、海援隊。この組織は、思想的な部分については極めて開放的であったといいます。
この時代、左幕主義、攘夷派などイデオロギーが社会の中心的な支配力があった時代にあって、極めて特徴的です。幕末の志士の多くは、諸国の人物の間を練り歩き、その思想を説いて回ることでもって、革命を成し遂げようとしました。つまり、価値観を強固に持ちまくって、その強固さという熱でもって、時代の変革を成し遂げようとしたのです。「価値観の開放」の全く真逆です。
対して、竜馬は、自身の組織である海援隊はいうに及ばず、その他接するそれぞれの立場のそれぞれの人物に対して、思想でもって染め上げるというような手法はとりませんでした。さまざまな立場の様々な思想を可能な限り、ぎりぎりまで許容しようとしました。そして、人を動かす手法としては、イデオロギーではなく、利得によって、動かそうとしたのです。
ここの部分、チクセントミハイのいう、「自意識のない自己確信」的で、希薄化した「我」の特徴をよくあらわしています。
また、竜馬は、時勢という言葉を大事にしますが、これもフローの特徴である、より大いなるものとの一体感といった概念と整合的です。



こうして考えていくと、坂本竜馬というのは、極めてフロー体質の人物であったことがわかります。



(次回へつづく)


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2009/07/23(Thu)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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