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大人の人生はおもしろいか

この質問に答えようとすること。これこそが、僕らの創造と豊穣の源泉なのである。

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対話に関するいくつかの補足



先日、ご紹介した「対話」についてですが、反響があったようなので、
少しばかり補足をしておきます。

前々回のエントリーにおいては、自己とのかかわりにフォーカスして
「対話」の一側面を語ったわけですが、
今回は、もう少し視野をひろげて、「対話」というものの思想的広がりを見て生きたいと思います。


◆「対話」の目指すもの

「対話」の目指すもの、行き着く先はどのようなものを目指しているのでしょうか。


前回のエントリーでは、自己とのかかわりにおいてですから、
自分が幸せになる、あるいは、自分の周りが幸せになる
ということかと思いますが、実は、「対話」が切り開く世界像というのは、もう少し広範にわたっています。


さて、少し唐突なのですが、

世界は、よりよい方向にすすんでいるのでしょうか?

という素朴な疑問があります。

有史以来、人間は狩猟・採集の生活から文明を発達させ、
農耕を営み、産業革命により富を蓄積するようになり、
世界は、個人の自由・プライバシーが守られ、物質的には
一昔前から考えられないくらい、恵まれた状況にあることは確かです。

しかし、ご存知の通り、そういった恵まれた現代に生きている我々は、
”幸福”といえない状況にある、というのが実感なのではないでしょうか。

その幸福でない状況というのを、ボームは、
「断片化」に求めます。

断片化というのは、孤立しているということ、
もっというと、「意味の共有」をされていないということ。

「意味の共有」というのは、意味の統一ではないところがポイントです。
これは、Aさんの意見と、Bさんの意見が一致していなくてもいい、
一致していない事実を皆で眺めるということが、実は意味の共有ということなのです。
一致はしないが、その事実を相互に了解しているというステートです。


また、ここでいう「意味」ということも、少しばかり通常の用いられかたより、深い概念です。
もう少し詳しく言うと、暗黙的な意味とでもいうのでしょうか。

暗黙とは、言葉にされていないだとか、表現されていないとか
そういう意味ですが、元来、思考とは、非常に暗黙的な部分を多く持ちます。

というより、思考とは、そのほとんど暗黙的なプロセスなのです。

そして、ここが重要なのですが、

思考は、暗黙的な領域から生まれてくるもの

ということです。

したがって、その暗黙的な領域が豊穣であること、
すなわち、意味の共有がなされている
状態が重要である、と。

そうなっていない、状態を、断片化といいます。

さて、ここまでの議論を踏まえ、

当初の問い、

「我々は幸せになっているのだろうか?」

について、どうでしょうか?

明らかに、NOという答えが返ってくるのではないでしょうか。

本来、文明・文化、共同体が担っていた、意味の共有というセメント(接着剤)が
無効化された現代において、その「意味の共有」を意識的に作り上げていく方法論、
即ち対話が必要とされているというボームの主張はがぜん説得力を持つのです。


◆「対話」と仏教

さて、この対話的態度。
実は、仏教的な態度と非常に関連があります。
ボームという人物自体、理論物理学者という極めて西洋的な立ち居地にいながら、東洋への傾倒が激しかった人物です。

インドの哲学者クリシュナムルティ氏との長年にわたる対話を繰り返しています。
まだ読んだことはありませんが、共著の著書も出版しています。
この「対話」という思想においても、氏の影響が強くあったことは想像に難くありません。

さて、仏教では、基本的には、悟りをめざすのですが、
この悟りという状態が、「対話」における、想定(意見)が発生しない状態なのです。

そして、瞑想をはじめとする仏教の様々な修行は、
「対話」における思考の自己受容感覚をひたすら鋭敏にすることを目的とします。

例えば、呼吸に意識をおく、という手法は、トランス状態というわれる
極度に集中した状態を目指しますが、
この集中状態により、まず、身体の自己受容感覚を鋭敏にしていきます。

思考の自己受容感覚というのは、前述のおとり、極めて難しいことです。
この困難性に対処するために、仏教では、身体の自己受容感覚を利用します。

即ち、思考が動けば、からなず身体に影響がでるから、
例えば、呼吸が乱れるから、それを契機として
思考の動きを観察してやる、と。
そういうプロセスをたどるのです。

こういう風に考えていくと、この対話という概念自体、
東洋哲学の体系を、西洋の言葉で焼きなおした
と考えても良いのかもしれません。


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2009/07/07(Tue)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について
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