「空気を読む」ということは、周りとの関係を円滑に保つとか、
情報をいきわたらせて、それによって自分も含めた周囲のパフォーマンスを上げていくという、そういった趣旨の言葉であると思う。
確かに、そのとおりで、「空気を読む」ことは、ビジネスが現場でもまれながら生きていくのに極めて有用なスキルであるとおもう。
しかし、そのことを意識すると、ちょっと危険な側面がるのではないかと、今日は、そういう話をします。
ものごとを推し進めるには、柔軟さが要求されてきます。
自身が正しいと思う事柄について、実直に進めていこうとすると、周囲から攻撃をうけてしまうこともままあります。
であるから、その反省として、空気を読みなさい、と。
そうなるわけです。
でも、ちょっと行き過ぎると、空気を読むということが、他人からの攻撃から身を守るという意味に曲解されることもあるのではないか、と、そう思うんです。
それを柔軟性なんていうことばで、華麗に装飾したりなんかして。
例えば、上司にあんまり納得していないことを命令されて、空気を読むのが得意ですから、その上司の意をくんでしまうと。そして、いざやろうとすると、別のほうから横槍が入り、その横槍に対して、うまく説明できずに、ぐずぐずの状態になる、なんてことはあるんじゃないでしょうか。
空気を読むとは、別の言葉で言えば、相手の顔色を伺うということです。
この態度は、相手の顔色が主体であって、それに対するリアクションでしかありません。
そして、視線の先は、当然ながら相手があるという形態をとっています。
そうなってくると、相手から攻められないという、防御が目的となってしまうのです。
こういうのを本末転倒といういうのではないでしょうか。
防御なんていうのは、後から考えることであって、
まずは、自分の正しい道を進む、そして、そこのは無私の精神で。
無私の精神というのは、極論すると相手を慮らない態度です。
と同時に、自分も慮らない態度です。つまり、人から攻撃されることをいとわない、ただ、実直に対象を直視するということです。
視線の先は、自身や組織の抱える問題・課題であり、仕事とそのものであるわけです。
まずは、そこに視線を誠実に向けなさい、と。
そして、そこから、導き出される道筋をただひたすらに、これが正しい、と。
まずは、そう思う。
そして、これが正しいと、周りに向かって、そう、云うのです。
そこに、きっと、静かながらも、
言葉の強さとでも言うものが出てくるのだと思います。
無私の精神が生み出す、言葉の強さがあって、初めて、そこに
交渉ということが、成立するのだと思います。
交渉というのは、相手の芯というベクトルと自分のベクトルという芯の調整のことをいうのですが、まずは、自分のベクトルというのが、なければ、そもそも調整にならないわけです。
二つの違うベクトルがあって、そこに初めて、相互理解という営みを経て、お互いの着地点を見つけることができるのです。
もし、交渉が不調であったときは、胸に手を当てて考えてみるといいと思う。
そこに、防御を主体とする、「空気読み」又は「柔軟さ」が先行していかかったか、と。
ちなみに、無私の精神のイメージとしては、黒澤明監督の「生きる」の癌に侵された主人公になるんじゃないかと。
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