今宵のお話は、対話に関してです。
◆「対話」の概念
”対話”という概念。
これは、物理学者デヴィット・ボームが提唱する概念です。
デヴィット・ボームというと、量子力学や相対論に業績のあった物理学者ですが、
アインシュタインらと親交があり、マンハッタン計画に関与するなどしていたようです。
また、脳のホロノームモデルなど、なにやらあやしげな研究もしていたようで、
ニューサイエンスの分野で必ず名前の上がる人でもあります。
さて、このデヴィット・ボームという人物、その思索の果てに、
”対話”という概念を提出します。
対話とは
・目的をもたず
・あらゆる想定を保留する
ということをし、集団的思考のパワーを引き出すことを目的と
する活動のことを言います。
こういうことをやると、人間関係の問題やら、
国家間の問題であったりという、いわゆる問題・解決型でない
問題には、都合がよかろうというわけです。
◆ボームの問題意識
では、なぜ、ボームは、このような帰結にたどり着いたか。
そこには、次のようなボームの問題意識があったわけです。
そもそも、我々は、不都合なことがあると、それを問題だと感じます。
問題というからには、それは思考することによって、
解決可能又は、解決するべきと考えるのが
普通ですが、そもそも、それは解決可能なのでしょうか。
というより、思考するからこそ、問題を生じさせている
のではないか、と、ボームは言います。
例えば、思考が国家を生み出している、といいうるのだと思いますが、
国家があるからこそ、そこに自己正当化が発生し、問題を引き起こす、と。
つまり、思考は想定(意見)を生み出すが、その想定(意見)は容易に、自己同一化され
守るべき対象とされてしまうのだ、と。
そして、この守る行為による自己正当化・自己欺瞞が、矛盾を生み、問題を拡大させていく、ということになります。
では、なにが悪かったか。
それは、問題ととらえる認識の枠組みです。
問題というのは、理にかなった疑問に対して
矛盾のない前提の下、正しい推論をすれば
解決策がある、という世界のことです。
しかし、世の中に不都合をもたらしている多くの「問題」は、
実際には、そうではありません。多くは、矛盾した前提を含む、パラドクスと
よぶべき代物なのです。
そこで、ボームは、不都合な事実に対して、
共感的、自己都合的な想定(意見)が発生する現場の様子を
本気で注意を払い続ける態度が必要だと、いいます。
このパラドクスに注意を向け続けるという対話的プロセスは、
問題の枠組みによる思考の形式のプロセスより、
大変パワーのいる行為ではあります。
しかし、パラドクス形式の不都合は、その不都合が持つ構造の
不条理さや、矛盾が認識されない限り、解かれることはない
というのです。
そして、その本気で注意を払い続ける態度のことを、ボームは深遠なアウェアネスといっています。
これは問題・パラドクスの議論に対する、個人的な見解ですが、
問題によっては、それは解決されるべきものではなく、統合されるべき問題もある
というのが、やまいもの見解です。
つまり、時を経て、様々な経験や知識の集積があって、
問題が解決されるのではなく、へーベル的、弁証法的な、統合及び止揚(アウフヘーベン)される、と。
そういうこともありなのではないか、と思うのです。
ではありますが、いずれにしても、あらゆる想定を保留し、その想定の発生現場に
本気で注意を払い続けるというボームの指摘には、
全く賛成です。
◆「対話」と自己
ところで、対話という方法論の有効性や適用可能性についても、
それはそれで面白いのですが、今回私が興味をもったのは、
対話にまつわる、自己との関連についてです。
対話をおこなうにあたって、重要なのは
思考の自己受容感覚であるといいます。
難しい言葉ですが、これは次のような意味です。
人は、体を動かしたとき、例えば、手を動かしたとき
その手をどの程度動かしたかが感じることができます。
しかし、思考においては、それができていないことが多い、と。
しかし、それをやることが重要なのだと、ボームはいいます。
この思考の自己受容感覚というのは、非常に難しいです。
ともすれば、思考というのは、通常は、自身と一体となっているのが普通です。
しかし、今日一日を振り返ってとか、近い過去のことを振り返って、
想定の発生現場を振り返ってみるというのは可能なのではないでしょうか。
その振り返りによって、自己の矛盾した側面というのが
経ち現れてくることはあるのではないか、と思うのです。
そして、その矛盾を理解すれば、不都合は解消する、と。
というわけで、時にはこの思考の自己受容感覚を意識してみるというのも、
また、有効な自己のステートといえるのではないかと思った次第なのです。
本エントリーは以下の書籍を参考にしました。