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大人の人生はおもしろいか

この質問に答えようとすること。これこそが、僕らの創造と豊穣の源泉なのである。

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日比谷花壇


マーケティングコラムを更新しました。

1月31日は「愛妻の日」なのだそうです。

その「愛妻の日」にちなんだあるお花屋さんの企画について取り上げています。

http://www.your-system.jp/strategy/hibiya/
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2014/02/10(Mon)  未分類コメント(0)トラックバック(0)
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ジーンズ再販サービス


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2014/01/31(Fri)  未分類コメント(0)トラックバック(0)
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ライフテーマと自己(エゴ)


ホ・オポノポノからはじまって、ここ1,2ヶ月書き続けてきた、自己の問題もこれにて最終回となります。
自己の問題にかこつけて、あっちゃ、こっちゃに思考が飛び回っておりまして、読んでいていろいろ混乱もあったかと思います。

しかし、語っているやまいも自身は、実は、そんなに混乱していないのです。
割と俯瞰してみているからかもしれません。

そこで、俯瞰の様子を、シェアします。
と共に、これだけ熱をこめて思考した結果を流してしまうのは惜しい、というわけで、記憶のフックをつくっておく、といった意味合い含め、全体のまとめを行っていたいと思います。

■まとめ

まず、問題となったのは、自己というものの希薄化が、有能かつ幸福につながるのではないか、ということです。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-227.html

そして、その自己の希薄化というのは、よくよく考えてみると、幸福にいたる極めて有効な手段であるとの認識に至りました。
それは、僕らに幸福をもたらす手段は、外的環境の改善と内的環境の改善という2つのアプローチしかないという事実に起因します。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-229.html


そして、その自己の希薄化ということに対して、最初のソリューションを提供してくれたのが、
ホ・オポノポノでした。
ホ・オポノポノ、「常識」「分別」=浄化すべきものという世界観は、最初に問題にした、”常に曇り空のように存在している自分”という感覚に整合的です。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-226.html

この「常識」「分別」=浄化すべきものという世界観に近い思想として、デヴィット・ボームの”対話”を取り上げました。
デヴィット・ボームは、僕らが不都合として目の前にたち現れてくるものは、解決すべき問題なのではなく、矛盾した前提を含んだパラドクスであると主張します。
そして、パラドクスは議論によって解決するのではなく、対話的な態度でもって、矛盾にした前提に気づくべきである、と。

その矛盾に気づくには、思考の自己受容感覚を磨きなさい、という主張は、困難ながらも、なかなか具体的です。


次に、今度はアプローチを変えて、認知心理学的、脳科学的アプローチでもって、自己が消失した状態を描写することを試みました。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-230.html

その結果、自己認識の欠如という状態は、
意識を一点に集中するピーク・アテンションという状態を作り上げることによって、自己意識をつかさどる部位である小脳扁桃という器官との連絡が途切れること、であることがわかりました。

また、この自己の運用方法を劇的に変容させた具体例ということで、NLPトレーナーの山崎さんの実体験も紹介しました。
承認によって、自己の運用方法を劇的に変換させることによって、人生をいっぺんさせてしまうことができる、ということで、この自己の問題の重要性を再認識しました。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-232.html


それから、仕事と自己との関係についても考察しました。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-234.html

動力源のポートフォリオという言葉をつかって、趣味に生きる人生を大いに肯定しました。

そして、最後にハンガリー出身の心理学者チクセントミハイ氏のフロー理論を取り上げました。
この理論のポイントは、意識の集中です。(これは、瞑想と自己のところとも共通しますが)
注意力という精神的エネルギーを集中することによって、フローと呼ばれる最適体験を生み出します。そして、そのフロー体験は、僕らが追い求めていた自己意識の欠如を生み出すことができるのです。

そして、意識の集中を生み出す環境についての構造を明らかにすることを試みました。ひとつには、不都合なプログラムの書き換えということでしたが、それだけは十分でない。”不足”を超えた、意識秩序化生成のための動力源を持たないといけない、と。それは、複雑化を生むような方向性でないといけない。故に、快楽の追求でなく、楽しみの追求でなければならない、ということでした。

また、フローを生み出していくプロセスについても、述べました。
退屈と不安を交互に繰り返すことによって、それは達成されると。

そして、そのフローを達成する自己のステートとして、”自意識のない自己確信”と呼ばれる、いわば現場主義てきな態度がよろしい、と。

要約すると、幸せの青い鳥の正体は、
”快楽”などでは決してなく、”楽しみ”なのであって
それは、
・思考の自己受容感覚の磨き上げ
・自意識のない自己確信
という2つの心理的態度で、注意力という心理的エネルギーを極大化することによって可能になる、と。

そういった結論になったわけです。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-235.html
http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-236.html
http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-237.html
http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-238.html
http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-239.html


■ライフテーマ

こうして、自己の問題から出発して、最終的には、幸せの青い鳥を捕獲しようとする試み、成功裏のうちに終わったのかどうか、というのは、最終的には読者の判断によるものだとは思いますが、個人的には、半分しか捕獲できていないのではないか、というのが正直な感想です。

とはいっても、探求領域の構造化が不十分だとおもっているわけではありません。
人間領域の客観的探求というのは、いつでも、どんなときでも、半分しか捕獲できないものなのです。

構造化して、その構造に魂をいれるのは、あくまでも個人的な問題であって、それは人が入れてくれる種類のものではありません。

今回の話で、あえて、その”構造に魂をいれるの”という行為に名前をつけるとすると、ライフテーマということになるでしょう。

第5回ではなした、大目標は失わず、それでいて、価値観を手放すという、そういうことを可能にするのは、ライフテーマという、強力かつ柔軟なジョーカーにたよるしかないということになります。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-239.html

しかし、にわとりが先か、たまごが先かという問題とおなじで、

・思考の自己受容感覚の磨き上げ
・自意識のない自己確信

が先か、ライフテーマが先かというのは定かではありません。

ですから、ライフテーマがないのであれば、この2つの心理的態度を足がかりにする、というのもひとつの戦略ではないか、と思うのです。


(了)


2009/07/25(Sat)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(0)
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フローと自己(エゴ)5

さてさて、今宵もフローに関するあれやこれやを元気に語っていきましょう。


■自意識のない自己確信

当初、自己の問題に関するあれやこれや、ということでお話をしてきました。
もう一度、その問題を復習しておくと、

”常に曇り空のように存在している自分”というものを疎ましく感じる、と。
そこで、この自己を何とか希薄化して、より清浄な内的環境を保持することはできないか、

という問題でした。

この問題に関して、その周辺については、なんとなく語っていつつも、その核心についてダイレクトにふれた箇所はなかったと思います。

今回は、その核心部分、やまいもが、フロー理論の中でもっとも感心した部分について語ることにします。


まずは、原文を抜粋。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
リチャード・ローガンが厳しい肉体的試練を生き抜いた人々ー北極への単独徒歩探検家、強制収容所の衆人などーについての研究で明らかにしたように、このような人々に共通した態度は、自分の運命は自分が握っているという信念を暗黙のうちに持っているということであった。彼らは自分自身の運命は自分の能力によって決定できるということを確信していた。その意味で、彼らを自信家と呼ぶことができるだろうが、同時に奇妙なことに、彼らには自我が欠如しているようにも見えるのである。彼らは自己中心的ではない。彼らのエネルギーは、典型的には自分の置かれた環境を支配することではなく、この環境の中で調和しながら行動する方法を見つけ出すのに向けられるのである。
このような態度は、人がもはや他のすべてに対する自分の目標や自分の意図の超越を強調する個人として、自分を環境に対立するものとは認識しなった時に生じる。彼は彼自身を周囲に起こることすべての一部と感じ、彼が関わらなければならないシステムの中で最善を尽くそうとする。矛盾したことだが、この謙虚な感覚ー自分の目標はより大きな実在に従属すべきであり、も苦境を達成するには自分の好みとは異なるルールに従って行動しなければならないという感覚ーは、強い人々の特徴である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                      
 (「フロー体験 喜びの現象学」より)


この抜粋の中に、上記の疑問に対する完璧すぎる回答が示されているのではないでしょうか。

いわゆる「我」といったらよいのでしょうか、自己という言葉に含有する「我」の部分を薄め、環境と一体となり調和した姿にこそ強さがある、といっています。

上記の態度のことを、「自意識のない自己確信」という表現でチクセントミハイ氏は表現しています。なかなか、素敵な表現だと思います。

そして、このような態度を取ることができる人が、生活を秩序付け、どんな困難な環境にも押しつぶされることなく、その生活をフローに変換しうるのだ、といっています。


■価値観の開放

全く、すばらしすぎる回答です。

意志はあれど、執着はない。
イデオロギーに生きるのでもなく、肩の力を抜き、あくまで現場に注力し続ける態度は、あらゆる選択肢を模索する余裕を与えます。故に、すばらしく有能であると考えることもできます。

このステートに立ったとき、人は「最強」かつ「最幸」であることができるのではないでしょうか。


では、どうしたらこのステートに立つことができるか。


それは、「価値観の開放」となるのではないでしょうか。
(この部分は、チクセントミハイ氏がいっているのではなく、やまいも、の独断です。)

僕らは、「我」の部分が顔をのぞかせるのは、多くは自身の価値観に合致しない事象に出会ったとき、その現実について苦々しく思うといった場面です。

つまり、要約すると、価値観があるから「我」と現実が衝突する、というわけです。
であれば、価値観がそもそもなければよい、と。
そうなるわけです。

ちょっと待った、じゃあ、それじゃあ、そもそもの大目標すらなくなってしまうのでは?

という最もな疑問はあるかと思います。

全くその通りで、ここで「価値観の開放」といっているのは、大目標は強くもつ必要はあれど、中途半端な中間の価値観は要らない、という意味です。


以前、坂本竜馬の自己意識というエントリーの中で、竜馬の自己の運用方法について述べたことがありました。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-228.html

この文脈で考えてみると、坂本竜馬の成功が良くわかる気がします。

つまり、坂本竜馬は、「価値観の開放」⇒「自意識のない自己確信」⇒「フロー」というルートを経て、成功したと見受けられる節がいくつかあります。

まず、海援隊。この組織は、思想的な部分については極めて開放的であったといいます。
この時代、左幕主義、攘夷派などイデオロギーが社会の中心的な支配力があった時代にあって、極めて特徴的です。幕末の志士の多くは、諸国の人物の間を練り歩き、その思想を説いて回ることでもって、革命を成し遂げようとしました。つまり、価値観を強固に持ちまくって、その強固さという熱でもって、時代の変革を成し遂げようとしたのです。「価値観の開放」の全く真逆です。
対して、竜馬は、自身の組織である海援隊はいうに及ばず、その他接するそれぞれの立場のそれぞれの人物に対して、思想でもって染め上げるというような手法はとりませんでした。さまざまな立場の様々な思想を可能な限り、ぎりぎりまで許容しようとしました。そして、人を動かす手法としては、イデオロギーではなく、利得によって、動かそうとしたのです。
ここの部分、チクセントミハイのいう、「自意識のない自己確信」的で、希薄化した「我」の特徴をよくあらわしています。
また、竜馬は、時勢という言葉を大事にしますが、これもフローの特徴である、より大いなるものとの一体感といった概念と整合的です。



こうして考えていくと、坂本竜馬というのは、極めてフロー体質の人物であったことがわかります。



(次回へつづく)


2009/07/23(Thu)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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フローと自己(エゴ)4


怒涛の更新ラッシュ、4日目であります。
今日も、しつこくフローに関するあれやこれやについて語っていきたいと思います。


■退屈と不安とフローの関係

フローを獲得していくプロセスで、意識しておかなくてはいけないのは、「退屈」という心理状態と、「不安」という心理状態です。

フローというのは、適切なチャレンジとスキルが良い具合でブレンドされないと、実現されないわけですが、活動というもは、常にチャレンジとスキルのブレンド具合が最適であるとは限りません。

ブレンド具合が崩れると、次のような形で、不安や退屈がおとづれることになります。

・チャレンジ>スキル ⇒ 不安
・チャレンジ<スキル ⇒ 退屈

例えば、テニスをする場合を考えて見ましょう。
はじめのうちは、相手コートにボールを返すことができるだけで、面白いのでフローの状態であると考えられます。しかし、次第に、それだけでは飽き足らずになります。つまり退屈するわけです。そして、もっと強いボールを打ちたいと考えるようになります。こうなると、スキルはすぐには獲得できないので、チャレンジ>スキルの状態になり、スキルがチャレンジにおいつくまで、不安の状態に置かれます。


このように、フローを獲得する過程では、不安と退屈が順番に訪れ次第に、複雑化(=上達)していくという形をとります。


■2つの不安

ここで、注意したいのは、不安には2つあるということ、
前回お話した、「快楽」を獲得する過程でも、不安は訪れるということ
です。
例えば、ご飯が食べられないかもしれないと思えば、それは不安になるのが当然です。

で、大事なのは、
「快楽」を獲得する過程の不安とチャジンジゆえの不安(=フローの不安)を区別すること
です。


快楽を追求しているのか(または、不快をさけようとしているのか)
それとも、楽しみを追求しているのか、区別しないといけません。


それは、なぜなら、同じ不安でもアプローチがことなるからです。

前者の不安に対しては、原因を解決しなくてはならりません。
または、それが、矛盾したパラドクスであるならば、そのパラドクスの構造を統合してやらなくてはなりません。

対して、後者の不安に対しては、不安を許容してやらなくてはなりません。
大切な意識の秩序生成装置の芽を摘んでしまうのは、あまりにももったいないからです。

よく陥りがちなあやまちは、不安を否定してしまう態度です。
この態度は、次のような循環をもたらします。

・不安⇒不安をもたらす原因の否定⇒迷い⇒集中力の低下⇒フローの条件の崩壊

こうして、せっかくのフローの芽が摘み取られてしまう、と。

僕らは、真剣になればなるほど、不安を覚えます。イチロー選手は打席に立つ前に、非常に緊張するといいます。優秀な役者なんかも、同様に非常に緊張するといいます。

フローを生むには、時空に強く相対していないといけません。そういう態度は、必然的に、強い緊張と不安を招くことになります。

であるから、フローを生むにはいい意味で苦しまないといけない、不安に苦しむ自分を許容しなくてはならない、ということになるのです。



■悟りの誤謬


よく、東洋的な世界観の中でかたられる、悟りという状態においては、俗世間から超越し、煩悩から開放されているため、ちょっとやそっとのことでは、動揺しない、常に穏やかである、そういうステートをよしとする、考え方があると思います。

しかし、この考え方には、やまいも的には、少々の違和感を覚えます。

それは、上で述べたとおり、人が真剣になれば、おのずと不安にさいなまれるからです。
ですから、むしろ積極的に不安を歓迎するくらいでちょうどいいのかもしれません。

しかし、常に確保しておきたいのは、快楽の観点での最低限の安心安全です。
ここの部分の最低ラインを確保することで、不安の中にも一種の余裕があるため、物事がうまく進みやすいというご利益もあります。

この安心・安全を確保した上での、僕らをワクワクさせる冒険旅行に旅たつ、と。そして、その冒険旅行に真剣に没頭する、と。

そういうスタンスが、もっとも理想的なのでは、
というのがやまいもの考えです。


こういったスタンスを、ひそかに実現してしまっているのが、

明日の僕との約束のリックルハングさんなのではないかと、最近そう思うようになった次第なのであります。


(次回へ続く)


2009/07/22(Wed)  自我(エゴ)コメント(4)トラックバック(0)
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フローと自己(エゴ)3



■文化とフロー

さて、前回、文化をフローを切り口として、見たらどうかという話をしましたが、

僕らの日本文化や、一般的な日本企業というのは、フローという側面で見た場合、優秀なのか、そうでないのか?


この問題を考えてみたいと思います。

結論から言えば、それはNOです。
つまり、優秀でない、といえると思います。

前回、フローをおおくもつ文化のほうが強いという話をしました。
これと矛盾するのではないかということですが。

一般的に、僕らが希求するのは、「快楽」と「楽しみ」です。
人々が文化を選択する基準として、「快楽」と「楽しみ」という言い方でも良いでしょう。
つまり、「快楽」と「楽しみ」の割合をかんがみ、よりバランスのとれた方向で、文化を選択していったというのが、僕らの歴史であり、文化の変遷であったわけです。

で、これらのことを踏まえて、僕らの、現在の文化の立ち位置を考えてみると、

産業革命以降の圧倒的な「快楽」供給機能を有した”資本主義”に、これまでの伝統的な”楽しみ”の文化が駆逐されていった

と考えることができるでしょう。

このため、僕らは、「快楽」の観点では、比較的恵まれた環境にいるといえると思いますが、こと「楽しみ」に関しては、疎外されている、といえます。

「快楽」と「楽しみ」のほかに、人が文化を選択するにあたって、もうひとつの構成要素があります。それは、「意味」です。イデオロギーといってもいいかもしれません。

時として、人は熱病にかかったように、「意味」に生きる場合があります。
これは、「快楽」と「楽しみ」双方が乏しい場合、それを補うため、一種の麻薬のような形で、相当強力な形で世界を支配していくことになります。
明治維新、戦時中といった時代は、これに当たります。


さて、この「快楽」というのは、精神的エネルギーの投入がほとんどいりません。
(カロリーを摂取するのには、それほど、集中しなくても良いですよね。)
このため、「快楽」を大量供給するテクノロジーそ有した文化がそこにあると、その文化は高い伝搬性をもって拡大していくことになります。

しかし、この「快楽」の精神的エネルギーの投入量の少なさという、いわば、低コスト生活に染まりすぎると、わざわざ面倒なフロー体験を追及する姿勢がどんどん少なくなり、どんどん単純な人間が生成されることになります。



■快楽の行き着く先

学生時代、やまいもは、パチンコ屋でバイトしていたことがありました。
そこで、印象にのこっているお客さんで、毎日くるおじいさんがいました。
年齢は80歳くらいだった思います。
そのおじいさんは、毎日くるのですが、いつも、負けて帰ります。
それも、ハンパな負け方じゃなくて、毎日10万、20万という額。

ほとんど、勝っていることろを見たことがない。

あるとき、ウエストポーチを開くところを見たのですが、
100万円の札束が入っていました。

これをみて、おもったことは、そのおじいさん、
パチンコ以外、なにか「楽しみ」を見出すことができないのだ、ということです。


パチンコというのは、工夫のできる範囲が限定的であるため、いわゆるフローの条件にはあまり当てはまりません。複雑化の方向性を有しない活動といってもいいでしょう。
このため、精神的エネルギーの省エネ運転が可能となります。
そして、貨幣という快楽(=感覚)蓄積媒体をもちいたものであるため、ゲームとはいっても、極めて、「快楽」の方向に軸足をおくものだといえると思います。

このように、複雑化の方向性で精神を鍛錬してこなかった人は、
そういったパチンコという、快楽生成装置に、依存した生活になってしまう、と。

快楽生成装置とはいっても、いつも負けているわけだから、快楽を提供しているとはいえません、そこは、「刺激」のみ発生しているという世界でしょう。

もう、そこには、不足という痛みすら、快楽であるという世界がそこにはあります。

最終的には、快楽の追求のみの人は、こうなってしまうんだ、と、妙に感心した記憶があります。



長々と話しましたが、結局何がいいたいかというと、快楽を求めていくことはある程度、必要ですが、「快楽」に流されがちな生活を、「楽しみ」、フロー中心の生活に軸足を移してく必要があるのではないか、ということです。


(次回へ続く)


2009/07/21(Tue)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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フローと自己(エゴ)2


■無意識との関係

僕らは、意識しか「意識」することはできません。
しかし、僕らを突き動かしているのは、主に無意識です。
無意識が僕らを突き動かすのは、良いのですが、
無意識はともすれば、意識から見て了解可能な方向へとは
ドライブしてくらない場合があります。

このような場合、意識と無意識が対立状態にあり、
注意力が引き裂かれ、いわば葛藤状態に陥ります。

ですから、僕らとしては、無意識からの誘引を意識から見て了解可能なものへ変換しておく必要があります。これのことは、以前にプログラムの書き換えという用語をつかって紹介しています。

無意識からの駆り立てというのは、多くの場合、「不足」の形をまとって
意識に立ち現れてきます。

そして、その不足を満たすと、快楽が与えられます。
快い、「感覚」を得るのです。


しかし、快楽を追求することだけでは、フローを得られません。
無意識の擾乱が少ないため、フローが得られやすい状況なったというだけです。

フローとは、無意識を飼いならす方向の問題ではないという点がとても重要です。



■フローの方向性

では、無意識からの擾乱を抑制することに成功したら、次に何をするのでしょうか。

フローを生み出すには、僕らは、複雑になる方向性で活動に従事しなければなりません。


なぜ、複雑の方向性が、フローが生み出すのか?

それは、そもそも進化の方向性そのものが複雑化の方向性だから
という、まことにあいまいな答えをチクセントミハイは述べています。

では、なぜ、進化は複雑化の方向性に進んでいるのか?

これについては、現在のところ、私自身納得のいく説明はできません。
しかし、我々にとって、なぜそうなるかというより、どうしたらフローを得られるかという実践的な問題のほうが重要でしょう。

当然、構造というのは大事です。しかし、構造を追及するより、実践を生み出す最低限の構造を明らかにするというのが、やまいものスタンスなのです。

複雑化という状況は、差異化と統合化というプロセスを経てもたらされます。

差異化とは、独自性や他者から自分自身を区別する傾向で、
統合化とは、他者との結合であり、自己を超えた思想や実体との結合を意味します。

個人の成長を例にとると、
あるロッククライマーは、山を登りきったことによって、
より有能に、より熟達した感覚をもとらすので、差異化されることになります。
と同時に、山に登るとき、ロッククライマーはフロー状態では、他者や世界に対して
「ともにいる」感覚を持つことがしばしばです。そして、その他者との一体感がエクスタシーをもたらすことになります。

こうして、フロー体験をした、ロッククライマーは、
差異化していると同時に、世界との調和をした統合化された自己を手に入れることになるのです。


■フローの条件

さて、複雑化をその方向性とするフローですが、具体的にどのような活動をへてフローに至るのでしょうか。

フロー体験をするには、次の条件を満たすことが求められます。

①能力を必要とすること
②明確なフィードバックがあること
③自己目的的であること

これら全部出ないにしても、すくなくともひとつくらいはフロー体験を生み出すのに有効な要素です。

①の能力を必要とすることというのは、前述の差異化と整合的です。
差異化を生むには、能力を伴う活動でありかつ、活動を行うことのよって能力が向上するすることが必須となってきます。
②の明確なフィードバックというのは、活動している最中、それ以外の活動へ注意力を錯乱させてしまうことを防止します。例えば、本当に今私はこの活動に従事していて良いのかどうかというのは、常に我々を悩ませる錯乱要因です。この錯乱要因をシャットアウトするというのは、フローを生む上で極めて重要になってきます。
③の自己目的的であるということ。これは、フローが不足によってドライブされる活動でないことに由来します。不足がドライブする活動は、不足が満たされてしまえば、更なる追求は一旦は退けられます。しかし、活動自体が目的になってくると、活動が到達点を迎えても、更なる上の目標を掲げるようになります。

これらの、3つの条件を満たす活動として、僕らの生活にとっても根付いているものがあります。それは、ゲームとスポーツです。

ゲームとスポーツというのは、能力を必要とすることは論を待たないし、勝ち負けという明確なフィードバックがあることは明らかです。さらに、プロスポーツならいざ知らず、アマチュアスポーツの多くは、その活動自体を目的にしています。

というより、ゲームやスポーツは、フローをもたらすよう設計されていると考えることができるでしょう。

さらにいえば、僕らが文化と呼ぶもの多くは、フローを生み出すために存在するといってよいでしょう。文化的というものは、多くは、食べるという不足を充足する以外の活動として特徴付けられます。であるから、必然的に楽しみを目的にするということになるのですが、その目的に合致した活動が、フローの前提条件を満たしたとしても、不思議ではありません。

これは、チクセントミハイ氏もいっているのですが、フローの多寡をもって文明・文化を評価することが可能なのかもしれません。

これは、やまいもの見立てですが、よりフローを多く持った文化が生き残っているのではないでしょうか。なぜなら、強い軍隊をもった文化よりも強いフローをもった文化のほうが、長期的には強いと考えられるからです。

また、これは、企業についても言えるのではないでしょうか。つまり、より強いビジネスモデルを作り上げた企業が生き残るのではなく、つよいフローを可能にした企業文化をもつ企業が生き残る、と。当たり前といえば、当たり前ですが、人が生き生き仕事しているほうが、生き残りやすいと考えるのが普通なのですから。


(次回へつづく)



2009/07/20(Mon)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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フローと自己(エゴ)1

ここまで、1,2ヶ月、結構しぶとく書き続けてきた
”自己(エゴ)”の問題に関して、そろそろ、まとめの段階に来ているかと思います。

そして、最後の、そのまとめとして取り上げるのには、この自己の問題関して、より包括的、系統的な枠組みを提供する「フロー理論」が最もふさわしいのではないかと思います。



■前置き

フロー理論とは、ハンガリー出身の心理学者 チクセントミハイによって提唱された理論で、幸福、楽しみ、最適体験、至高体験といった、人がその人生において「楽しみ・充実」といわれる心理状態を実現している状態を研究したものです。

ところで、

人は皆幸福を追求しているわけですが、それは意識的に追求できうるものなのでしょうか?

心理学者ビクターフランクルは、

「成功を目指してはならない。成功は、それを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。幸福と同じく、成功は追求できるものではない。それは自分個人より重要な何者かへの献身の果てに生じた予期しない副産物のように、結果として生じるものだからである。」(『意味の探求』より)

といっています。

Mr.Childrenの桜井さんは、
「愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの。 」

といっています。

いずれにしても、成功、幸福、愛といったものは、直接的に追求しても得られないというのが、先人の結論のようです。

しかし、直接的ではないにしても、そこにいたる道筋は確実にある、と
チクセントミハイ氏は言います。

一言で言うと、意識を統御すること、ということに尽きるわけですが、
氏の理論は、いわゆるハウツーを提供しているわけではありません。

むしろ、人が幸福に至る原理・構造を示すことに始終しています。
つまり、具体的な処方箋を出すのではなく、
原理・構造を理解することが、この種の問題解決への至る道を提供する、というわけです。


そして、ここからは、フロー理論に対する、
やまいもの曲解となるわけですが、

人は、幸福な生き方を追求し、幸福になるのではなく、
(多くは、夢を追って生きるとか、そういうことになるかのかもしれませんが、)
そうではなく、物理的な幸福な脳のステート(フローというものなのですが)を実現することによって、幸福になる、ということをやってしまおうというのが、やまいもの狙いです。


そういった意味で、前述のMr.Childrenの言葉は、
「愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの。 」を
やまいもが語るとすれば、
「愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて、フローを実現することによって意図的・戦略的に獲得するもの 」

ということになるでしょうか。


また、前述のビクターフランクルさんの言説については、

「自分個人より重要な何者かへの献身の果て」という部分は正しいですが、
予期しない副産物という部分が違っているのではないか、と思います。

つまり、意図的に、「自分個人より重要な何者かへの献身」を行い、
予期した主産物として、幸福を手に入れてしまうことはできるだろう、と。


要は、ビクターフランクルさんや、ミスチルの桜井さんの言説を否定するぞ、といっているわけです。幸せの青い鳥を探しにいってしまおうという冒険的試みなのです。



■フロー理論とは

さて、前置きがながくなりましたが、

その理論のなかで、フローとは、意識を秩序化すること、と定義されています。


これだけだと、なんだかわかりませんね。
これから説明します。

我々が何かものごとに集中しているときというのは、
注意力という心理的エネルギーを一点に振り向けています。
他方、我々が注意力が散漫なとき、イライラしているとき
というのは、この注意力が複数の方向に引き裂かれている、
と考えることができます。いわば葛藤です。
この葛藤が諸悪の根源であると、いいます。

我々の意識というのは、あまり性能が良くないので、
1秒間に126ビットしか処理ができません。
一度の扱える量が、少ないため、同時に一括に処理を行うことが苦手なため、
注意力が引き裂かれた状態だと、極めて効率が悪いということになるわけです。

効率が悪いから、不幸だというわけではありませんが、意識を極度に集中している状態だと、世界と一体化し自意識が希薄化し、世界と自身が調和しすべてがうまくかみ合っているという、いわゆる最適体験、至高体験といったことが達成されるということが知られています。


というわけで、一旦、幸福=フローというふうに考えて、これからこのフローにまつわるお話を展開していくことにいたします。


(次回へ続く)


2009/07/19(Sun)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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仕事と自己(エゴ)

■働くこととアイデンティティ

ここのところ、割と濃密な感じで、精神世界の話題をしているので、ちとディープすぎで肩がこってきたので、今日は、ちょっとライトな感じでいってみたいと思います。

プロレスラー三沢光晴が死にました。

このことに関して、経済評論家 山崎元さんは、自身のブログの中で、興味深い発言をしています。

http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/08a0367e8e8cd88c683ed1725f7435a5



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「日本社会は働くことが人々のアイデンティティーになり過ぎている」という指摘は正しい。失業の際の喪失感が異様に大きいし、仕事を失うと自分を失ったように思うことが多いというのもその通りだろう。付け加えると、世間も、失業者・無業者に厳しい。こうした社会的な価値観は解毒する必要がある。
 働くことは大切なことかも知れないが、本人は好きで働いているのだから殊更に立派なことではないし、働かずに食えるなら、それはそれで大したものであって、他人がとやかく言うべきものではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

通常、日本社会では、人生の時間の非常に多くの時間をすごすのが仕事なわけだから、仕事をより楽しめるものにするのがよい。
そして、仕事に誠心誠意うちこみ、仕事の中で、人格を磨いていくのがよろしい、と。

そういう価値観が支配的であるように思います。
(先の発言、なんだか島耕作と松下幸之助を足して2で割ったような感じですね^^;)

こういった価値観が行き過ぎると、ともすれば、仕事がうまくいかない場合、
うまく自分をコントロールし、自己肯定感をもつのが難しくなるという害毒があります。

そこで、山崎さんは、この行き過ぎた価値観の害毒を、解毒すべし、といいます。

まったく、その通りだと思います。

■二人の先輩

ここで思い出すのが、会社の二人の先輩のことです。
47歳、52歳になる二人の先輩は、いくつか共通点があります。

高額所得者であること。
独身であること。
会社で重要でありつつも、役員を望むようなポジションではない。

帰結として、
・時間がある 
・お金がある
・家族の制約のような緊迫した責任がない。

ということになります。

それゆえ、必然的に生活を秩序付けていくような方向性、
精神的なエネルギーを投入し、生活に楽しみをもたらしてく対象を
趣味に求めることになります。

事実、二人の先輩は、
世界遺産めぐりおじさんであったり、
LPGA(女子プロゴルフ)フリークであったり、
オーディオマニアであったりします。

さて、この二人の先輩ですが、先日ゴルフをすることになったのですが、
遠方かつ早朝だということで、前泊し、少しばかり、お酒を飲んだのです。

そこでの、印象にのこったセリフ。

①「やまいも、お前は子供がいたりして忙しいだろうけど、人にはそれ以外にも、生きがいがなければいけないのだよ」

②「いまゴルフをそんなにうまくなったら、定年後やることがなくなってしまうじゃないか」

③「働くことほど楽しいことはない」

このような発言をきいていて、思ったことは、あがりの人生だな、ということ。

つまり、経済的にも、時間的にも、高度な自由と、安心安全が確保されており、人生の”あがり”の状況を実現しているように見受けられることです。

そして、同時に感じるのは、その”あがり”の状態というもの困難性です。

困難性とはどういうことかというと、
”あがり”の状態は、人を行動に駆り立てる動力源を失うという状況ですから、
こういう状況に陥ると、多くの人は、人間の持っている不安であるとか、憂鬱といったマイナス面に焦点を当てる
ということです。

これは、人間の意識の癖として、どうもそういう風にできているようです。

ですから、人は無理やりにでも動力源を獲得すべく、
意味の創出に躍起になることになります。

当然、”不足”という動力源があれば、無理やり創出することはないわけですが、
そういった”不足”のない、”あがり”の状態だと、趣味の世界という、
若干のむりやり感がただよう領域から、捻出しなければならない
ということになるのです。


■動力源のポートフォリオ

さて、いままでみてきた二人の人生ですが、
率直に言って、幸福なのでしょうか?

結論から言って、まずまず幸福といってよいのではないか、
というのが、やまいも見解です。

その理由は、以下のものです。

人生において、大事なのは

「意識を秩序化して、深い集中力をもって時空に接していること」

です。

この観点から考えると、二人の人生には、次の優秀性が認められるられます。

(1)安心安全が確保されているから、不必要な意識の秩序化を妨げる妨害が少ない。
(2)仕事、家庭などから、責任という、意識の秩序化をもたらす外部装置は持たない反面、自発的・内発的動機付けでもって、それをもたらしている。このため、意識の秩序化能力が秀でていると考えることができる。

よく、夢を持って、その夢にまい進して事を成し遂げていく、
という人生が、すばらしい人生だといわれます。

確かに、こういった人生は、

「意識を秩序化して、深い集中力をもって時空に接していること」

を実現しやすい、人生といってよいでしょう。

しかし、夢破れた場合のリスクが極めて大きいことが難点です。

であれば、今回紹介した二人の人生のように、
趣味世界にうまく人生の動力源を分散し、かつ、意識の秩序化能力の向上を怠らない
という生き方も、なかなかにすばらしいものであると思われるのです。



2009/07/12(Sun)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(0)
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対話に関するいくつかの補足



先日、ご紹介した「対話」についてですが、反響があったようなので、
少しばかり補足をしておきます。

前々回のエントリーにおいては、自己とのかかわりにフォーカスして
「対話」の一側面を語ったわけですが、
今回は、もう少し視野をひろげて、「対話」というものの思想的広がりを見て生きたいと思います。


◆「対話」の目指すもの

「対話」の目指すもの、行き着く先はどのようなものを目指しているのでしょうか。


前回のエントリーでは、自己とのかかわりにおいてですから、
自分が幸せになる、あるいは、自分の周りが幸せになる
ということかと思いますが、実は、「対話」が切り開く世界像というのは、もう少し広範にわたっています。


さて、少し唐突なのですが、

世界は、よりよい方向にすすんでいるのでしょうか?

という素朴な疑問があります。

有史以来、人間は狩猟・採集の生活から文明を発達させ、
農耕を営み、産業革命により富を蓄積するようになり、
世界は、個人の自由・プライバシーが守られ、物質的には
一昔前から考えられないくらい、恵まれた状況にあることは確かです。

しかし、ご存知の通り、そういった恵まれた現代に生きている我々は、
”幸福”といえない状況にある、というのが実感なのではないでしょうか。

その幸福でない状況というのを、ボームは、
「断片化」に求めます。

断片化というのは、孤立しているということ、
もっというと、「意味の共有」をされていないということ。

「意味の共有」というのは、意味の統一ではないところがポイントです。
これは、Aさんの意見と、Bさんの意見が一致していなくてもいい、
一致していない事実を皆で眺めるということが、実は意味の共有ということなのです。
一致はしないが、その事実を相互に了解しているというステートです。


また、ここでいう「意味」ということも、少しばかり通常の用いられかたより、深い概念です。
もう少し詳しく言うと、暗黙的な意味とでもいうのでしょうか。

暗黙とは、言葉にされていないだとか、表現されていないとか
そういう意味ですが、元来、思考とは、非常に暗黙的な部分を多く持ちます。

というより、思考とは、そのほとんど暗黙的なプロセスなのです。

そして、ここが重要なのですが、

思考は、暗黙的な領域から生まれてくるもの

ということです。

したがって、その暗黙的な領域が豊穣であること、
すなわち、意味の共有がなされている
状態が重要である、と。

そうなっていない、状態を、断片化といいます。

さて、ここまでの議論を踏まえ、

当初の問い、

「我々は幸せになっているのだろうか?」

について、どうでしょうか?

明らかに、NOという答えが返ってくるのではないでしょうか。

本来、文明・文化、共同体が担っていた、意味の共有というセメント(接着剤)が
無効化された現代において、その「意味の共有」を意識的に作り上げていく方法論、
即ち対話が必要とされているというボームの主張はがぜん説得力を持つのです。


◆「対話」と仏教

さて、この対話的態度。
実は、仏教的な態度と非常に関連があります。
ボームという人物自体、理論物理学者という極めて西洋的な立ち居地にいながら、東洋への傾倒が激しかった人物です。

インドの哲学者クリシュナムルティ氏との長年にわたる対話を繰り返しています。
まだ読んだことはありませんが、共著の著書も出版しています。
この「対話」という思想においても、氏の影響が強くあったことは想像に難くありません。

さて、仏教では、基本的には、悟りをめざすのですが、
この悟りという状態が、「対話」における、想定(意見)が発生しない状態なのです。

そして、瞑想をはじめとする仏教の様々な修行は、
「対話」における思考の自己受容感覚をひたすら鋭敏にすることを目的とします。

例えば、呼吸に意識をおく、という手法は、トランス状態というわれる
極度に集中した状態を目指しますが、
この集中状態により、まず、身体の自己受容感覚を鋭敏にしていきます。

思考の自己受容感覚というのは、前述のおとり、極めて難しいことです。
この困難性に対処するために、仏教では、身体の自己受容感覚を利用します。

即ち、思考が動けば、からなず身体に影響がでるから、
例えば、呼吸が乱れるから、それを契機として
思考の動きを観察してやる、と。
そういうプロセスをたどるのです。

こういう風に考えていくと、この対話という概念自体、
東洋哲学の体系を、西洋の言葉で焼きなおした
と考えても良いのかもしれません。


2009/07/07(Tue)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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変容と自己(エゴ)

今宵は変容と自己とのかかわりにおいてです。


◆変容の条件

人は、時にびっくりするくらい変容する場合があります。

変容するとは、外界からの刺激に対する感じ方、
その感じ方を形作る考え方、そして感じ方・考え方を通じて
出力されるアウトプット、そのすべてが変わることをいいます。

多くのスタープレーヤーも、この変容を経験しています。

変容が起こる条件として、状況が極めて劣悪であることがあげられます。

この極めて劣悪な環境を何とかするには、
外的環境の改善だけでは、ままならず、
内的環境の改善というより、内的環境の改革をなしとげなければならなかった
ということになるのでしょう。


◆変容の現場

NLPトレーナーである山崎啓支さん著「願いがかなうNLP」の中にも
この変容体験が語られています。

願いがかなうNLP願いがかなうNLP
(2009/02/19)
山崎 啓支

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山崎啓支さんは、当時営業をやっていたのですが、
社内一のダメ社員であったそうです。
何をしても、失敗続きで、あまりにもクレームが多いので、
クレーマークレーマーとあだ名されていたこともあったとか。

ある日、彼はとんでもない失態をしでかしてしまいます。
クライアントはかんかんに怒っていて、キャンセルをするというし、
そのクライアントが紹介した知り合いにも、今回のことを伝える
といます。そうなると、会社の損失は1000万以上となってしまいます。

そこで、本来なら上司に報告すべきところを、そうしないで、
独断で自分だけで説得に向かいます。
結局、なんともできずに説得は失敗に終わります。

そして、とうとう会社への辞意をかため
辞表をもって、上司に報告に行きます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上司たちは黙って私の話を聞いてくれました。
いつもは話の途中で怒鳴りだす上司も、最後まで何もいわずに
熱心に聴いてくれました。こんなに熱心に聴いてくれたのは初めてでした。
すべてを話し終えると、上司はいいました。
「わかった」
そして続けました。
「あとは俺らがうまいことやってやる。だからもう安心しとけ。」
この言葉を聞いて、涙が止まらなくなりました。
それまで私は、ずっと自分を否定されていると思っていました。何一つ仕事のできないダメ人間だと思われていると思っていました。自分で自分をドブネズミのような存在だと思っていました。
その私を許してくれたのです。
「お前はお前でよくやった」と暗にいわれた気がしたのです。
はじめて自分を認められたような気がしました。
心の底でそう感じたのです。

このとき私は変わったのです。
そして、私をとりまく「世界」もガラッと変わったのです。

このとき瞬間的に思いました。
これからは、この人たちのために生きよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



こういった顛末でもって、彼は変容を遂げ
そこから先は、社内でトップの営業マンとなっていきます。


◆精神の発達過程

人の精神の発達過程というのは、いくつかの段階があります。
第一段階は、安心安全の欲求の充足、という段階です。
この段階の生のエネルギーの供給源は、「不足」です。
「不足」がもたらす、強烈な焦りが、生存欲求を刺激し
人間をトライブしていくことになります。

その次の段階は、「探索」です。
第一段階の、「不足」が満たされると、一時的に
人間をドライブしていく動力源を失うことになります。
そうなると、人は平穏で何の問題もない生活を送るのですが
次第に、物足りなくなってきます。充足感を渇望するようになるのです。
そして、充足感を得られる何者かを見つけるために、
探索の旅に出ることになります。
この段階では、人はあらゆる角度から充足感を探索することになりますので、
文字通り、旅に出たり、キャリアを変えたり、といったことを行うことがあります。


第三段階。探索の旅のなかで、とても数少ない一握りの人間が、
ライフテーマを見つけていくことになります。
そして、発見したライフテーマに生活全体を秩序付けて、
それはあたかも、レーザー光のように波長の位相がそろって、
極めて強力なエネルギー体となるように、、
ひとつの方向に強力にまい進してく、ということになります。


さて、この山崎さんの例ですが、いきなり第一段階から、第三段階へ
ワープしていることがわかります。
このワープをするというのも、まま、見られる現象です。
よく、臨死体験をしたとか、そういった、強烈な体験をしたひとに
多くあります。

ここでのポイントというのは、
極めて劣悪な環境が、
「自身の生死を超越するほどに高度に抽象的なポジションから世界を眺める」
というポジション獲得に役立っている、ということです。

そして、そこで、何かをつかんで、それがライフテーマになるわけです。

そこで、つかむものは人によって様々です。
多くの場合は、人のためになることが多いようです。

山崎さんの例ですと、それが「承認」になるのではないかと思います。
絶望的な状況で、上司に承認されたことによって自身が変容を遂げたということで、承認の重要性に目覚め、承認による変容を追及していくことになるのです。

こういう風に考えていくと、劣悪な環境というものに対して、
ウェルカムな気持ちが出てくるような気がします。

2009/07/04(Sat)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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対話と自己

今宵のお話は、対話に関してです。


◆「対話」の概念

”対話”という概念。

これは、物理学者デヴィット・ボームが提唱する概念です。

デヴィット・ボームというと、量子力学や相対論に業績のあった物理学者ですが、
アインシュタインらと親交があり、マンハッタン計画に関与するなどしていたようです。

また、脳のホロノームモデルなど、なにやらあやしげな研究もしていたようで、
ニューサイエンスの分野で必ず名前の上がる人でもあります。

さて、このデヴィット・ボームという人物、その思索の果てに、
”対話”という概念を提出します。

対話とは
・目的をもたず
・あらゆる想定を保留する
ということをし、集団的思考のパワーを引き出すことを目的と
する活動のことを言います。


こういうことをやると、人間関係の問題やら、
国家間の問題であったりという、いわゆる問題・解決型でない
問題には、都合がよかろうというわけです。



◆ボームの問題意識

では、なぜ、ボームは、このような帰結にたどり着いたか。

そこには、次のようなボームの問題意識があったわけです。

そもそも、我々は、不都合なことがあると、それを問題だと感じます。

問題というからには、それは思考することによって、
解決可能又は、解決するべきと考えるのが
普通ですが、そもそも、それは解決可能なのでしょうか。

というより、思考するからこそ、問題を生じさせている
のではないか、と、ボームは言います。

例えば、思考が国家を生み出している、といいうるのだと思いますが、
国家があるからこそ、そこに自己正当化が発生し、問題を引き起こす、と。

つまり、思考は想定(意見)を生み出すが、その想定(意見)は容易に、自己同一化され
守るべき対象とされてしまうのだ、と。
そして、この守る行為による自己正当化・自己欺瞞が、矛盾を生み、問題を拡大させていく、ということになります。

では、なにが悪かったか。

それは、問題ととらえる認識の枠組みです。

問題というのは、理にかなった疑問に対して
矛盾のない前提の下、正しい推論をすれば
解決策がある、という世界のことです。

しかし、世の中に不都合をもたらしている多くの「問題」は、
実際には、そうではありません。多くは、矛盾した前提を含む、パラドクスと
よぶべき代物なのです。

そこで、ボームは、不都合な事実に対して、
共感的、自己都合的な想定(意見)が発生する現場の様子を
本気で注意を払い続ける態度が必要だと、いいます。

このパラドクスに注意を向け続けるという対話的プロセスは、
問題の枠組みによる思考の形式のプロセスより、
大変パワーのいる行為ではあります。

しかし、パラドクス形式の不都合は、その不都合が持つ構造の
不条理さや、矛盾が認識されない限り、解かれることはない
というのです。

そして、その本気で注意を払い続ける態度のことを、ボームは深遠なアウェアネスといっています。


これは問題・パラドクスの議論に対する、個人的な見解ですが、
問題によっては、それは解決されるべきものではなく、統合されるべき問題もある
というのが、やまいもの見解です。

つまり、時を経て、様々な経験や知識の集積があって、
問題が解決されるのではなく、へーベル的、弁証法的な、統合及び止揚(アウフヘーベン)される、と。
そういうこともありなのではないか、と思うのです。

ではありますが、いずれにしても、あらゆる想定を保留し、その想定の発生現場に
本気で注意を払い続けるというボームの指摘には、
全く賛成です。



◆「対話」と自己

ところで、対話という方法論の有効性や適用可能性についても、
それはそれで面白いのですが、今回私が興味をもったのは、
対話にまつわる、自己との関連についてです。

  
対話をおこなうにあたって、重要なのは
思考の自己受容感覚であるといいます。

難しい言葉ですが、これは次のような意味です。

人は、体を動かしたとき、例えば、手を動かしたとき
その手をどの程度動かしたかが感じることができます。
しかし、思考においては、それができていないことが多い、と。

しかし、それをやることが重要なのだと、ボームはいいます。

この思考の自己受容感覚というのは、非常に難しいです。
ともすれば、思考というのは、通常は、自身と一体となっているのが普通です。

しかし、今日一日を振り返ってとか、近い過去のことを振り返って、
想定の発生現場を振り返ってみるというのは可能なのではないでしょうか。

その振り返りによって、自己の矛盾した側面というのが
経ち現れてくることはあるのではないか、と思うのです。

そして、その矛盾を理解すれば、不都合は解消する、と。

というわけで、時にはこの思考の自己受容感覚を意識してみるというのも、
また、有効な自己のステートといえるのではないかと思った次第なのです。

本エントリーは以下の書籍を参考にしました。

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ
(2007/10/02)
デヴィッド・ボーム

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2009/06/29(Mon)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(0)
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瞑想と自己(エゴ)

今宵は、チベット仏教の僧侶の例を取り上げてみましょう。

■西洋と東洋

前回、人間が行うソリューションには2つのタイプがあって、
それは、外的環境の改善と、内的環境の改善である
というお話をしました。

前者のアプローチを主に採用したのが、産業革命以来の西洋、
それに対して、一貫して内的環境の改善のアプローチを取り続けたのが、
東洋、という見方ができるのではないかと思います。

事実、西洋には、自然を征服するという思想がそこかしこに見受けられますし、
対する東洋には、仏教、ヨガ、禅、武術といった
身体技法をつかった、内的世界の統御方法をテーマにした
体系が数多くあります。

というわけで、この内的環境の改善のテーマたる、
自我(エゴ)の問題に関しても、東洋の文化を考察することは、
有益な示唆が与えられることが期待できます。


■瞑想の過程で起こっていること

チベットの僧侶たちは、厳しい修行を行いますが、
それは、多くは、瞑想を行うことによって、行います。

この瞑想という過程は、どのようなプロセスを踏むのでしょうか。

瞑想のプロセスに入るにはまず、「ピーク・アテンション」とよばれる、
意識の集中状態を実現します。

一般には、望ましい精神活動をしているときというのは、
アルファ波をだしているといわれています。

ここでは、より高周波であるガンマ波を出すといいいます。
この状態のとき、人の脳は、最大限の活動をしていることをあらわします。
何かに没頭しているとき、鋭いひらめきがあったとき、何かを深く学んでいるとき
などは、この状態にあるといわれています。

この状態を達成すると、次第に、意識が変性意識状態になります。
トランス状態といってもいいです。

要は、人が差し向けることができる注意のエネルギーを、自身の内的世界の一点に注ぎ込むことで、
現実の世界より、内的イメージの世界のほうが臨場感をもった状態になるのです。

このなると、2つのことが起こってきます。

ひとつは、認識力の高まりです。
ある研究では、瞑想を定期的に行っている人は、連続的な閃光を見せると、ちゃんと一つ一つの
光を認識できたのだそうです。
対して、瞑想を行っていない人は、連続した単なる光の連続としてしか
認識しないということです。

また、この集中した意識状態は、感情から切り離されることによっても、
知覚力を高めているという側面があるようです。

「EQ-こころの知能指数」の著者、ダニエル・ゴールドマンによれば、
瞑想者の大脳新皮質は、スピードアップするが、感情表出に関与する
大脳辺縁系からは切り離されているといいます。

つまり、感情から切り離されるから、的確な判断ができ、知覚力があがる、と。


そして、もうひとつは、自己認識の欠如です。

瞑想にはいり、ピーク・アテンションの状態になると
脳の前頭葉はより活発になるのですが、頭頂葉はあまり活動は見られません。
ここには、小脳扁桃という器官があります。
この器官は、自分という感覚や、外界からの感知する好悪の感情をつかさどります。

自分でない何かに極度の集中をするために、多くの場合、抽象度の高いより観念的な問題を考えることになると思うのですが、このようなことが起こるのかもしれません。

自己意識がないということは、自分と自分以外の境界を意識することはないということです。
いうなれば、世界との一体感ということになるかと思います。

■意識と自我(エゴ)の関係

さて、ここで重要なことは、瞑想という行為が極めて意識的な行為であるということです。
瞑想が、結果的には、自我(エゴ)の消滅をもたらすわけですが、
実は、ピークアテンションに持っていくには、意識の極度の集中という
極めて意識的、即ち自我(エゴ)的な行為をしなければならない、ということです。

意識の集中、すなわち、徹底的に自分そのものである思考の世界に没入していく、と。
そうすると、次第に自己とそれ以外の境界が薄くなって、自己の消失する、と。
そういう構造になっているのです。

逆接的ですよね。

例えば、極めてエゴイスティックな動機で持って、深い集中で持って内的世界で瞑想を行うと、
結果として、エゴがなくなってしまう、ことになるのですから。



2009/06/23(Tue)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(0)
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再び、今何故、自我(エゴ)の問題なのか?

今宵は、ちょっと脱線気味に、「今何故、自我(エゴ)の問題なのか」ということについて補足しておきたいと思います。

◆2つのソリューション

人は、苦しみから逃れようとしたり、幸せになろうとしたり
あーでもない、こーでもない、思い煩いながら生きているわけです。

あらゆる人間にとって、この問題は極めて重要です。
この問題に対処するために人間のあらゆる活動が展開されているといってもいいかもしれません。

ですので、この問題への対処の仕方は複雑になると思われるかもしれませんが、
実は、この種の問題のソリューションは本質的には2パターンしかありません。

ひとつは、外的環境を改善する。
もうひとつは、内的環境を改善する、です。

我々人間のプロセスは、単純化する次のような図式となります。
まずは、外界で起こるさまざまな現象を
五感を通じて刺激を体験し、その体験を自らの価値観で持って解釈する、と。
さらに、その体験を繰り返し再生し、再度追体験するということを行います。

さて、このプロセスを踏まえて、外的環境を改善するとは、
自らの価値観にとって、好ましい刺激が来るように
外界に働きかけて、外界そのものを変革してしまおうという
努力のことを言います。

対して、内的環境の改善とは、まずは五感を通じた刺激の解釈の仕方を
体験の捕らえ方を好ましいものに変革し、かつ、体験の再生の具合を
好ましいよう制御してやろうということを意味します。

これら2つの努力の方法は、どちらが有益でしょうか?

もちろん、どちらも必要なのですが、
外的体験と内的体験の比率が3:97であるという事実を踏まえると、
内的環境の改善というのが、極めて、有益に思えてきます。


◆自分が変われば、世界の見え方は一変する

さて、そうなると、ここ最近のブログの話題、特に自我(エゴ)の問題
というのが、にわかに意味を持ってくるような気がします。

古今東西の偉人の一致した見方として

「自分が変われば、世界の見え方は一変する」

というのがあります。

これは、内的環境を改善するということが
如何にパワフルであるか、ということを別の言葉で表現しているに過ぎないわけです。

で、自我(エゴ)の問題ですが、
この問題は、内的環境の改善ということの究極のソリューションを提供する
ということに他なりません。

というのも、それぞれの問題をいちいちリフレームしていたのでは、
骨が折れて仕方がありません。
根絶やしにできないわけです。

ところが、自我(エゴ)の問題というは、人間の存在の仕方という
個々の問題から一段、抽象度が上がるわけですので、
ここの事象に左右されることなく、オールマイティな解決を与えることになります。

したがって、やまいもは、こんなに一生懸命語っているというわけなのです。


2009/06/17(Wed)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(0)
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坂本竜馬の自己意識

今回から、古今東西の自己(エゴ)体験に関する記述を取り上げていきます。
ます、最初は「坂本竜馬」に関してです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
深山で、あるキコリが大木を切っていたとき、いつの間にきたのか、サトリという異獣が、背後でそれを見ている。
「何者ぞ」
ときくと、
「サトリというけものに候」
という。
あまりの珍しさにキコリはふと生け捕ってやろうと思ったとき、サトリは赤い口をあけて笑い、
「そのほう、いまわしを生け捕ろうとおもったであろう」
と言い当てた。キコリはおどろき、このけもの容易にいけどれぬ、斧で打ち殺してやろうと心中でたくらむと、すかさず、サトリは
「そのほう、斧でわしを打ち殺そうと思うたであろう」
といった。
キコリは、ばかばかしくなり、
(思うことをこうも言い当てられては詮もない。相手にならずに気をきっていよう)
と斧を取り直すと、
「そのほう、いま、もはや致し方なし、気を伐っていようと思うたであろう」
とあざ笑ったが、キコリはもはや相手にならずにどんどん木を伐っていた。
そのうち、はずみで斧の頭が柄から抜け、斧は無心に飛んで、異獣の頭にあたった。
頭は無残に砕け、異獣は二言と発せずに死んだという。
剣術でいう無想剣の極意はそこにある。

(中略)

「剣には、心妙剣と無想剣とがある。」
「心妙剣とは何か」
別名を実妙剣といい、自分が相手に加えようとする狙いがことごとくはずれぬ達人のことで、剣もここまでゆけば巧者というべきである。しかし、この剣も、サトリの異獣のようにそれ以上の使い手がくれば破れてしまう。
無想剣とは、
「斧の頭」
なのだ。斧の頭には心がない。ただひたすらに無念・無想でうごく。
異獣サトリは心妙剣というべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。剣の最高の境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である。

(中略)

「竜さん(竜馬)が、無想剣に達しておる、と申されるのでございますか」
「到達してはおらぬ。到達しておれば、竜馬めにわしでさえ打ち砕かれるであろう。しかし、無想剣というのはよほど鍛錬せねば得られぬ境地だが、ひとつは素質なのだ。心妙剣は凡人の到達できる最高の位であり、無想剣は天才の到達できる最高の位である。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記の文章は、坂本竜馬が青春時代をすごした
千葉道場での一幕です。

このころは、まだ竜馬は頭角を現すには至っていません。

しかし、幕末維新史上の奇跡といわれた
「天才」の自己の運用法の原型を見る感じがします。

この無念・無想でうごく無想剣は、
我々の関心事である、自己の消失の概念と整合的です。

当然、その時代にも、無私・無欲といった道徳は
あったとは思いますが、竜馬のそれは、
単に道徳的な意味での自己の消失というわけではなかったようです。

事実、同時代の西郷も「私心を去って、自らをむなしくしておかなければ人はあつまらない」というようなことを述べていますが、竜馬のそれとは趣を異にしています。



大政奉還に奔走する時期になると、
竜馬の一日の遅れが改革を一日伸ばす
ような状況になります。

そういう状況で、竜馬は

自分が人間であるとは思えない、

というような発言をするようになります。


これは、無欲としての自己(エゴ)の超越ではなく、
公のビークル、時代のビークルとなる感覚、
それによる、自己の希薄化ということになると思いますが、
こういった領域まで侵入していることが伺えます。


この時流をつかむ感覚
時代の波に乗った感覚
というのもまた、自己がなくなる体験のひとつなのでしょう。

ちなみに、波に乗るということで思い出しましたが、
サーファーには、悟りの境地に達する人がままあるようです。

波に乗る≒自然との一体感≒時流との一体感

というわけで、ある種の共通項目があるのかもしれません。

2009/06/15(Mon)  自我(エゴ)コメント(0)トラックバック(0)
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今何故、自我(エゴ)の問題なのか?

前回、これから自我(エゴ)を語っていくということをいいましたが、

今何故、自我(エゴ)の問題なのか?


それは次の問題意識から発生しています。



■人はなぜ苦しむのか?



人はなぜ苦しむのか?


それは、自我(エゴ)があるから
諸説あるでしょうが、私はそう考えています。


ここでいう自我(エゴ)とは、
・自分ってこういう人だよね
 ということに加えて
・ああなりたい、かくあるべし、
といったものまで含みます。


私は、一時とても苦しんでいた時期がありました。
仕事上の人間関係が原因です。

そのとき、無私の精神という
ステートを偶然、発見しました。

この無私の精神というステートについては、
以前、このブログでも取り上げたことがあります。

詳しくは以下を読んでいただきたい。

http://sisousei.blog33.fc2.com/blog-entry-205.html



要は、過剰に自己防衛的であるステートというのは
ものごとがうまく進まず、苦しむことが多いわけです。

そこで、このステートから脱却するために
自我を薄めるというようなことをするのですが、
こうすることにより、全般的にものごとが好転し始めるわけです。

ここでのポイントが、私がない状態ということです。

つまり、私が無くなる
 ⇒苦しみからの解放

というわけです。



■人はいかなるとき幸福を感じるのか

それからもうひとつ目の問題意識は、

人はいかなるとき幸福を感じるのか

というものです。

結論から言うと、これもまた、”私が無い時、人は幸福を感じるのではないか”
というのが、いまのところの暫定的な結論であるわけです。


その理由は、詳しくはこれから何回かにわけて語っていきますが、
その前に、私の経験談を少々。

前述の、無私の精神で好転した周辺の状況ではあったのですが、
次第に空虚感を感じるようになってきました。

具体的にいうと、ストレスがない状況にはなったのですが、
穏やかな日々が続くだけで、充実感や達成感が得られないという状況です。

そしてこの状況に、ちょっとした焦燥感に近いものを感じるようになってきたのでした。

そのときに気づいたことは、
ストレスがないという、その時点での状況というのは、
いわゆるゆるい状況であり、無我夢中である瞬間が少ないということです。
これは、ある意味で、自分が常に存在しているということです。

そして、その常に曇り空のように存在している自分というものが
うとましく感じるようになった、と。

こういった経緯で、ゆるい状況で自分の消去していくことが、
ここしばらくの私の関心事となったというわけです。


2009/06/12(Fri)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(0)
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ホ・オポノポノの思想

ホ・オポノポノという「成功法則」があります。

これは、伝統的なハワイの癒しの方法で、
これでもって、さまざまな奇跡的な出来事が起こっているようです。


やることは、

ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。

と、ただつぶやくだけというシンプルなものですが、

その奥にある、世界観が面白いと思ったので、今回紹介することにします。


以下の記事に、わかりやすい解説があります。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0906/06/news002.html

少し長いけど、とてもよくまとまっているので
そのまま引用します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々は大人になり、社会生活を営む中で、実に多くの「常識」や「分別」、各種の知識、情報を身に付けていく。そしていつしか、それらを駆使して日常生活を送ることに慣れ、それらを組み合わせてモノを考えたり、行動したりすることが、社会人としての主体的な生き方だと思っている。

 しかし、そうした生き方は、自分という人間の本来あるべき生き方とイコールなのだろうか。自分の魂は本当にそのように叫び、そうした人生や行動スタイルを切望しているのだろうか。ただ単に自分の心や頭にまとわりついた世間の常識や分別や各種情報が、そうさせているだけなのではないだろうか。そんなものに振り回されていて、自分らしい人生は歩めるのだろうか。

 長く生きている中で、ふと思うことがあるこうした疑問。ホ・オポノポノとは、そうした現代人の心や頭にこびりついた常識、分別、知識などの各種「情報」から解放されて、人間が「自由」を手にし、自分本来の人生を取り戻すための方法なのである。

 そして、それは実に簡単に実現できると説く。

 例えば、仕事であれプライベートであれ、何か不愉快な出来事に遭遇すると、我々は「あの野郎、ふざけやがって!」などと他人に責任を転嫁して、怒りの感情に打ち震えるものである。

 しかし、ホ・オポノポノでは、「自分の潜在意識の中のどの情報が原因となって、彼は私にあのような言動をしたのだろうか?」と自らの心に問いかけ、そしてこの「不愉快な出来事」という「情報」に対して、「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」という4つの言葉をかけることで、この「情報」を消去するのである。それはあたかもPCのDeleteキーを押すのと同じで、いちいち心を込める必要もなければ、何回何十回も繰り返す必要もない。ホ・オポノポノが教える手法には付帯的なテクニックも多少あるものの、実質的にはこれに始まり、これに終わると言ってよい、実にシンプルなものだ。

 ホ・オポノポノではこうした行為を「クリーニング」と呼び、これを通じて自分の心をプラスマイナスゼロのフラットな状態にすることが可能になるのだという。そして大切なことは、こうしたクリーニングは不快で不幸な「情報」に対してだけでなく、将来への「夢」「憧れ」、あるいは感動的な出来事といったハッピーな「情報」に対しても適用され、これらも「消去」していく必要があるという。

要するに、昔から仏教で説いている「執着のない」心を実現しなさい、ということなのである。「アイツのせいで自分はこうなった、絶対許せない」…… などといった感情は、結局、個々の人間の「顕在意識」の中にある「情報」を再生させているだけのこと。しかし、人間には、そうした顕在意識層とは比較にならない情報量(ヒューレン博士によれば1100万倍)を有する「潜在意識」層がある。

 人類の誕生以降、数千年の間に、人間は数十億人を数えるまでになった。現代を生きる我々は、誰しもが、そうした人類の歴史(記憶)を、自らの DNAの中に刻印しているのであり、そういう意味では、世界の人類がほぼ同じ記憶を有しているとすら言える。そしてそれは、個々の人間が明示的に自覚することもなく、1人1人の潜在意識層にひっそり存在している。

 多くの人間を巻き込む集団的な災厄であれ、個々の人間の幸不幸であれ、それは結局、人類の誕生にまで繋がる、そうした「潜在意識」層に存在する過去の「記憶」(情報)の再生なのだ、というのがホ・オポノポノの基本的な考え方なのである。だからこそ、「自分自身に起きた出来事は良いことも悪いこともすべて自分の「潜在意識」の中の「情報」が引き起こした」と考えなければいけないということになる。

 それゆえ、そうした記憶(情報)を消去し、クリーニングするに当たっては、既に述べたように、「自分の潜在意識の中のどの情報が原因となって…… になったのだろうか?」と心に問いかけた上で、その情報に対して「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」という言葉をかけることが重要になるのである。

 ここで注意しなければいけないことがある。それは、「自分の潜在意識層の中の情報に原因がある」と思うことは、自責の念に駆られることとはまったく異質だという点だ。何か不幸な出来事が発生した際に、「自分の能力が足りなかったから……」「自分に魅力がないから……」などと自分自身を責め、人生を諦めてしまう姿勢は一見潔いが、「アイツのせいでこうなった」という他罰的姿勢と結局は同じことで、自分の「顕在意識」の中のわずかばかりの記憶を再生させて物事の決着を図っているのに過ぎない。
ホ・オポノポノで一体何が実現するのか?

 こうした「クリーニング」によって何がもたらされるのだろうか?

 「それは“インスピレーション”(ホ・オポノポノでは「霊力」と呼ぶ)である」とヒューレン博士は断言する。いわゆる「直観」はこのインスピレーションとは全く異なるという。というのも、「直観」は過去の記憶の中にある情報を組み替えて再生しているに過ぎないからであり、それに対してインスピレーションは過去の記憶とは無関係な、あたかも光が降り注ぐかのように、「自然」に「努力なく」立ち現れるまったく新しいものだからだ。自分自身の生き方が宇宙の流れと同期したときにインスピレーションは降り注ぎ、自分にとって最もふさわしい「本来あるべき」力を発揮できるようになるのだという。

 このプロセスこそが、自分を取り巻く困難な諸問題を解決に導くとともに、人生に光明を与えてくれるのである。誰もが願うであろう、そうした人生。それゆえに我々は、日々の生活の中で「クリーニング」を通じて、過去の記憶(情報)の消去に励まなければいけないのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私もまた、この「分別」、「常識」というものの危うさに対して、
時に疎ましく感じる人間の一人です。

我々の多くは、この「分別」、「常識」をよりどころにし、
感情が動き、反応し、行動し、挙句の果てに自己正当化し、
ともすれば、他人を批判したり、裁いたり、見下したり、馬鹿にしたり
評価したりします。

この「分別」、「常識」をもとにしたプロセスにより、
時に充実感、達成感、優越感や喜びという一瞬の輝きがあることは確かですが、
それは同時に、ストレスの温床であることも、また真実です。

なので、この怪しげな「分別」、「常識」というものに
決別したい、と。
(結構、この「分別」、「常識」って、単なる思い込みであることが多いですし。。。)


ところが、我々の多くはこの「分別」、「常識」といったものに
寄り添って生きなくてはいけない宿命をもっていると
勝手におもっている節があります。
が、「そうではない」、と、ホ・オポノポノの伝道師ヒューレン博士は、いいます。


これら「分別」、「常識」といった情報を浄化し、
フラットなステートを実現すると、“インスピレーション”がおりたち、
本来あるべき力が発揮できるようになる、と。
そういうのです。


たいてい、このような、

○○すると、幸せになれる。

とか、

○○すると、成功する。

といったような、安易な’あおり文’があると
結構、その気になってしまう人がいるようです。


私も、性格が大変素直に人間ができておりますので、
そういった傾向があります。

ではありますが、
「ホ・オポノポノはすばらしい」
という言説もまた、「分別」、「常識」の一種です。

したがって、
明日から、毎日、ホ・オポノポノをやっちゃいます、
ってなことは言えませんが、


「自分の潜在意識層の中の情報に原因がある」

という考え方だけは、妙に納得感があると
そう思ってしまった次第なのであります。


~~~~~~~~~~

ここのところ、自我(エゴ)の問題をずっと考えています。

ホ・オポノポノもそうですが、こうした自我(エゴ)を取り扱った題材を
つづけてアップしていきたいと考えています。


2009/06/09(Tue)  自我(エゴ)コメント(2)トラックバック(1)
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成長は目的なのか



◆「成長の思想」の妥当性


以前、成長の思想ということを紹介したことがあります。

一部を抜粋します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そうはいっても、努力しつづけるもの、つらく困難な状況が時におとずれる
 というのが人生です。
 こういった困難な状況に威力を発揮するのが、成長の思想です。
 成長の思想とは、困難な状況にこそ、人が成長するとてもとても
 貴重な体験である、と考える考え方です。
 そして、そういった困難な状況にもまれながら
 成長していく姿にこそ、人生の意味がある、と。こう考えるわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、この思想について。

本当にそうなのだろうか。

と思うのです。

この思想、一見とても口当たりよく
聞こえてきます。


さまざまな困難にもめげず、
一生懸命に生きている姿が浮かんできて
受け入れやすい感じがします。

しかし、失敗したことに対する負け惜しみ、
あるいは、安易な自己正当化という側面はないでしょうか。

たとえば、

問題にぶち当たるとすぐに、より望ましい結果が得られなかった
現実を直視せず、これも自身の成長にとっては良かった
などと、事実を簡単にねじまげて、自己正当化してしまうという。。。

こんなかんじ、ありがちですよね。


◆成長は目的なのか

私は、成長というのは、決して目的ではないと思うのです。

人生を遠景で眺めたときには、
この出来事が人間的な成長をもたらした
というようなことはあるでしょう。

しかし、それは、あくまで結果論であって、
成長を目的に行動したから、成長したのではありません。

出来事が結果として、成長をもたらしただけです。


なので、問題にぶち当たろうとも
後だしじゃんけん的に”成長”を持ち出すような、
暇なことはせずに、現場仕事に汗を流すべきではないか、
と思うのです。


◆容量・用法・注意事項

とはいっても、「成長の思想」をすべて否定しているわけではありません。
人は、時に、ポエムを欲します。
そのポエムに誤謬が含まれていようとも、
人が救われるなら、それについてとやかく言うつもりはありません。

しかし、そのポエムというメッセージは、必ず、服用すべきステート
があるのです。そのステートを吟味せずして服用するのは、危険です。

そして、多くのメッセージには、容量・用法・注意事項が記載されていません。
自己責任での服用となるのが常です。

という訳で、やまいもが、その注意事項を書いているという寸法になっているわけです。


本当は、メッセージを服用せずとも、
健康体でいられる精神の健全性を確保する
そういう方向に行きたいものであります。



2009/05/19(Tue)  未分類コメント(4)トラックバック(0)
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悪人の思想

■メッセージの毒性


悪人の思想とでもいうべき境地があるのだと思います。
今日は、そのことについて話します。

まず、ここのところ本というものに対して全く
読む気がしなくなっています。

というのも、本に書いてあることというのは、
同じようなことが書いてあると思ってしまうからです。


本屋さんにいくと、
ちょっと食傷気味な気分に陥ります。

まあ、人間のこころに響くメッセージというのは、
概ね抽象的なものであるし、抽象的であるからこそ、
深い部分で共感ができるのだけれども、
一面では、当たり前のこと、同じようなことであるともいえます。


あたりまえであっても、共感できればいいじゃない
という考え方もあるかもしれませんが、
釈然としない思いもまた同居します。


その釈然としない思いのひとつには、そのメッセージ自体がすばらしいのではなく、
そのメッセージを獲得するに至った経験がすばらしいということ。


経験がすばらしいのなら、’経験’こそ、
自分自身でしなくてはならないでしょう。

そして、その経験がより自分の経験になるためには、
自分の自由意志で判断・選択した経験でなくてはならないでしょう。

であれば、何某さんが、あれはいい、こうすべきといっていた
という中途半端なメッセージを自身に蓄積することは
それは、毒にこそなれ薬にはならないんじゃないかと思うのです。


■悪人の思想

もうひとつには、メッセージが普遍的になればなるほど、
抽象的になればなるほど、常識的になってきます。

この常識的であるということは、
受け入れられやすいということだから、
精神的エネルギーを極小化して生きることを可能にします。

それはそれで、ひとつの方法であるとは思いますが、
独創の価値観とは相容れないものがあります。

独創の価値観であれば、いついかなるときでも
あらゆる可能性を追求する精神となるのが妥当です。


独創の人、坂本竜馬の言葉に、
「衆人みな善をなせば、我一人悪をなす」という言葉があります。

善、つまり常識というのは、衆人の思想です。

衆人の思想でいきるとは、独創の価値観にとっては
精神の堕落、以外のなにものでもないでしょう。


ちなみに、坂本竜馬のこの悪人志向とも言うべき魂は、
先日なくなった忌野清志郎さんのパンク魂を感じさせます。

そういった意味で、坂本竜馬という人は、商社、海軍などいろいろなものの祖ですが、
パンクというのも坂本竜馬が祖なのかもしれません。






2009/05/13(Wed)  未分類コメント(2)トラックバック(0)
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やさしさについて

■やさしさだけでよいのか

人はやさしいだけでよい

と思ってたのです。

今回は、そうでもないと思うようになったというお話をします。

なぜ、人はやさしいだけでよいとおもっていたか。

それは、人にとって重要なことは、人間的成長であると
考えていたからです。

人生に起こるさまざまな、挫折や経験を通じて
人間は、魂が磨かれていきます。
そして、その経験を通じて
成長していく姿にこそ
人間のすばらしさがあると、
そう考えていたのです。

まあ、ありがちといえばありがちな考え方ですが。


ところが、友人から次のような話を聞くにいたって、
どうもそうでもないかもしれないと思うようになったのです。


その友人のお兄さんは、ニートなのだそうです。
現在、35歳で無職。パラサイトシングルをして、
いつも、家でぶらぶら。

デートをしてても、
お金がないので夕食をたべに実家にかえってくるという。。。

で、そのお兄さんは
小さいころから、とてもやさしく
すごくいい子だったそうです。



この

 ”小さいころ、いい子でやさしかった”

という性質は、実は、ニートの共通項目です。

私の義理の弟も、以前ニートでした。

10年ほど、ニートをしてたのですが、
その彼もまた、とても、とても優しいのです。


■安楽としてのやさしさ

やさしさにもいろいろ種類があるのだとおもいますが、


安楽としてのやさしさ


とでもいうべきものがあります。


やさしさ、というものは、
一面では、道徳的ということです。

道徳というのは、人間が社会生活を送る上で、
もっとも摩擦なく、低いエネルギーレベルで
すごしていけるように整備した単なるレールにすぎません。

レールですから、そのレールにそった人間というのは、
型にはまった人間しか生まれ得ないわけです。
エネルギーの弱い人間にとっては、
それは、安楽なことであるでしょう。

私は、以前、人は優しいだけでいいと考えていたのは、
やさしさというものを人間の成長のひとつの達成
と思っていたからです。

自分のことに精一杯で、’やさしさ’というものをなかなか
実現することができないという自分を尺度にして、
その’やさしさ’を実現する鉄人にたいして
いわば、強者の余禄としてのやさしさを感いていたわけです。


しかし、

目の前にある果実をつかみにいけない、

そういう人間もいます。


それは、弱さゆえです。

その弱さが、やさしさとして
目に映ずることになる。

それが、安楽としてのやさしさなのです。




■天使な凡夫より、悪の独創

このような観点から、

やさしくなくたって、いいじゃないか

と思うようになったのです。

特に、子供の時期においては、です。


天使な凡夫より悪の独創

こちらのほうが、ずっといい。

レールにそって行動しないということは、
それは、独創につながるからです。

仮に、やさしさを見せるときがあってもよいが、
それは、根底にずるがしこさか計算高さが
あるときのみ、それは、許容されると考えるくらいがちょうどいいのかもしれません。


そうやって、十分強くなった暁に、
強者の余禄としての優しさを見せるという、
そういうステップを踏むのがよろしいのではないかと思います。



2009/05/08(Fri)  未分類コメント(4)トラックバック(0)
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プロフィール

Author:やまいも
金融系システムの仕事をしています。
趣味は理屈をこねること。
そして、こねた理屈で人類の幸福を希求する。
これが私の願いなのです。

代表的な記事としては、次のものがあります。

「空気を読む」という言葉に内包されている危険な側面
人類の進化という観点から捉えた金融危機の意味について
自由論
HappynessとSuccessそして有能であるということ
やさしさについて
自我(エゴ)

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